伊勢神宮(-JINGU-)◆ 度会国御神社(WATARAI-KUNIMI-JINJA)
創建年
- 推定約478年(雄略天皇22年)以前
建築様式(造り)
- 切妻造
- 平入
※神明造り
屋根の造り
- 板葺き
大きさ(正殿)
- 棟持柱の高さ(地面から棟まで):不明
- 梁間:不明
- 桁行:不明
鳥居の形式(境内)
- 神明鳥居(伊勢鳥居)
御祭神
- 彦國見賀岐建與束命
社格
- 伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)「摂社」
別名
- 度会国都御神の社
度会国御神社の読み方
「度会国御神社」は「わたらいくにみじんじゃ」と読みます。
伊勢神宮においての摂社・末社の定義
よく神社の紹介で「摂社」という言葉を耳にすることがあります。
「摂社(せっしゃ)」とは、御正宮の御正殿でお祀りされている神様と関連のある神様をお祀りしています。
一方、摂社とよく並んで出てくる「末社」に関してですが、伊勢神宮の「末社」の定義は、他のお社の末社と定義とは少し異なっています。
と、言いますのも、平安時代に伊勢神宮が直に編集した『延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう) 』に記載された神社名をもとにして社格が定められております。
そして、神宮の「末社」とは、つまりは、神宮125社の1社を意味していることになります。
尚、現在では、すでに廃止に至っておりますが、明治初頭に発布(公布)された「(旧)官国幣社(かんこくへいしゃ)制度」では以下↓のように表記されております。
- 別宮>摂社>末社>所管社
度会国御神社の別名について
度会国御神社が、草創された当初のお社の名前は「度会国都御神の社(わたらいのくにつみかみのやしろ)」と呼称されていたようです。
名前が現在の度会国御神社へと変わった理由とは、延暦儀式帳に記載されていた名前に則って、「度会国都御神の社」から、現在の「度会国御神社」へと、お社の名前があらためられたと伝えられています。
度会国御神社の御祭神「彦國見賀岐建與束命」について
度会国御神社の御祭神・「彦國見賀岐建與束命(ひこくにみがきたけよつかのみこと)」は、「伊勢国造家の伊勢中臣氏」ならびに「外宮の神主である度会一族」の祖先神とされております。
「彦國見賀岐建與束命」は、「天日別命(あめのひわけのみこと)」と「弥豆佐々良比売命(みずささらひめのみこと)」の子供とされております。
「天日別命」は、朝廷の臣下・中臣氏の祖先であり、時の天皇である「神武天皇」の東征に随従し、伊勢国を平定へと導いています。
そして、平定した伊勢国に住んでいたとされる「弥豆佐々良比売命」との間に、男♥女の縁が結ばれて、「彦國見賀岐建與束命」を生んだとされています。
つまり、縁結びにも少しはご利益のある神様であると言うことが伺えます。
度会国御神社の歴史・由来
度会国御神社は、外宮の「摂社」の位置づけとなっており、外宮の摂社として社格の順位は3位となっております。
「彦國見賀岐建與束命」が、当初お祀りされていた場所は、外宮の周辺に、かつて存在した「山田門前町・山田前田村(現在の伊勢市駅・宇治山田駅の周辺)」と呼称される場所であったとされております。
その後、御神体が遷されて、「伊勢市八日市場町(ようかいちばちょう/現在の山田工作場の辺り)」 にお祀りされたそうです。
この当時には、「度会国御神社」に「遥拝所(ようはいじょ)」が存在しており、この遥拝所の場所というのが、現在の外宮の宮域であったとされております。
つまり、その後、現在の場所へ遷されてきたことになります。
現在見ることのできる「度会国御神社」の姿は、1956年(昭和31年)に再建されたものであり、そのほとんどの面影は、1980年(昭和55年)に施工された修繕工事後の姿だと云われております。
伊勢国造家・伊勢中臣氏と外宮の度会一族(神主)の起こり
「伊勢国造」の読み方は(いせこくぞう/いせのくにのみやつこ)と読みます。
伊勢国造は、伊勢市をはじめとして、現在の三重県 名賀郡(古来は伊賀郡)から、伊勢志摩まで統治した氏族でした。
かつては朝臣(朝廷に仕える臣下)として、朝廷の「神事・祭祀」の一切を取り仕切っていたとされています。
尚、伊勢国造の祖先にあたる有名な人物として「中臣鎌足(なかとみの かまたり)」が列挙されます。
後に中臣氏は「藤原姓」を名乗り、中臣姓は断絶したかのように見えますが、その姓は伊勢国造家の「伊勢中臣氏」として継承されていくことになります。
さらにその後、「大中臣氏(おお なかとみうじ)」や「度会氏」、「藤波氏」へと名前が推移していくこととなります。
度会氏と「伊勢神道」
度会一族は、数々の古文書でも「伊勢国造家」と記述されており、主に外宮(豊受大御神)の「祭祀(さいし)」「祭礼(さいれい)」の、一切を取り仕切る「伊勢祭主(神主)の一族」とされてきました。
しかし、もとの起こりは京都・丹波にかつて存在した「丹波国造家(たんばのくにのみやつこけ)」が正しいとされております。
以上のことから、度会氏が「外宮の豊受大御神」と「月夜見尊」を丹波の地から、外宮へ遷して来たと考えられています。
度会氏は後に、外宮の豊受大御神を天照大御神よりも格上の神様であるいった説を唱え始め、「伊勢神道(いせしんとう)」と言われる独自の神道を生み出し、伊勢神宮・内宮と争ったと伝えられています。
現在、神宮・外宮で執り行われる祭事や祭神も、未だにかつての中臣氏の信仰が大きく関与しているとも云われます。
現に外宮で祭祀されている豊受大神以外の御祭神は中臣氏に由来した神であり、その素性は今日に至っても一切、不明であり謎とされています。
【補足】伊勢神道とは?
伊勢神道とは、「神道五部書(しんとうごぶしょ)」という書典を中心とした、度会氏独自の神道の考え方・あり方についてまとめた本のことです。
伊勢神道は別称で「度会神道」とも呼ばれ、外宮の祭神「豊受大御神」が、天界・地上世界の実質の最高神であると唱え、その根拠として天界の根源神「天之御中主神(あめのみなかぬし)」および国土の根源神「国之常立尊(くにのとこたちのみこと)」と豊受大御神が同一の神であると唱えた独自の神道のことです。
世界はまず、天地開闢(てんちかいびゃく)と呼ばれるキッカケ(出来事)から誕生します。
天地開闢によって最初に誕生したものが神ではなく世界です。その最初に誕生した世界とは、天照大御神が御座す「高天原(たかまがはら)」です。
高天原の次に誕生したのが「造化の三神」と呼ばれる三柱の神様たちで、その中の一柱が「天之御中主神」になります。
天之御中主神が最高神と位置づけられるにはこのためです。ウフ
その後に形のない整っていない土の塊であった大地が誕生しますが、この時に同時に国之常立尊が誕生しています。国之常立尊が国土の根源神と呼ばれるのはこのためです。
その不成立な大地を形ある国土として日本大陸を創造したのが、その後に誕生した有名なイザナギ神・イザナミ神です。最初に現在の淡路島や隠岐島を創造したとされています。
以上、長くなってしまいましたが、これらの神々は上述した4柱の神々以外にも、あと数柱の神々が誕生しており、合計で11柱(日本書紀)もしくは12柱(古事記)の神々が、ほぼ同じタイミングで誕生したとされています。
これら12柱の神の中にはイザナギ・イザナミのように性別を持った神(男神と女神)も誕生し、それらを1代として表現するなどして最終的に7代の神としてまとめ、「神代七代(かみのよななよ/神世七代)」とも呼ばれています。
伊勢神宮内宮と外宮の最高権力者は誰??
伊勢神宮の最高権力者は明治時代までは、大中臣氏もしくは中臣氏が大宮司として代々世襲によって担当しています。
その中臣氏は主に政権に携わって朝廷に出仕していましたので、実際に伊勢神宮で祭祀を執り行っていたのはその配下である荒木田氏や度会氏と呼ばれる一族が世襲制で行っていました。
荒木田氏は、伊勢神宮を創建した倭姫命に禰宜(ねぎ)任命された「天見通命(あめのみとおし)」を始祖とした一族で、代々、中臣氏が世襲する大宮司の1つ下の位となる「禰宜」を世襲しています。
えぇっ?!中臣氏も荒木田氏・度会氏と同族だった!!
実はあまり知られていませんが、この荒木田氏と度会氏は同族と云われています。
この理由は、度会氏も荒木田氏ももとは、当時、伊勢地方を支配した伊勢国造である磯部氏が起源とされているからです。
奈良時代になると一部の磯部氏が「度会」を名乗るようになり、その一部が「荒木田」を名乗っています。
以上、伊勢神宮における実質の最高権力者は、外宮が度会氏、内宮が荒木田氏という構図になります。
なお、中臣氏のルーツをさかのぼると、朝臣として権勢を誇った藤原氏が有名ですが、実際の祖先は中臣鎌足であり、その中臣氏自体の起源はなんと!上述の磯部氏と同じ祖先となる倭姫命に禰宜に任命された「天見通命」が起源であるとされています。
ただ、学術的には中臣氏の一族は京都山科を根城としており、京都山科と言えば渡来系の百済の人々が居処したことでも有名です。このことから、一説では中臣氏は渡来系民族だとも推定されています。
以上、まとめると、事実上、伊勢神宮の祭祀や管理の一切はすべて、中臣氏の氏族が明治時代まで世襲の上、担当していたことになります。
度会国御神社の場所(地図)
度会国御神社は、外宮の御正宮を参拝後に北御門鳥居を少し進んだ後に、左脇で出てくる「御厩(みうまや)」の後ろから、左へ伸びる参道へ入って徒歩5分ほど進むと見えてきます。
正直、参拝する方は少なく、人とすれ違うのも稀です。自然に囲まれた参道を自分の世界として味わうことができます。
参道を進むと、最初に覆屋風の小さな社殿をもつ「下御井神社」が出てきて、その奥に度会国御神社があります。
しかし、参道はさらにその奥まで延びており、最奥には「大津神社」があります。ぜひ、大津神社へも立ち寄ってみてください。
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