伊勢神宮(-JINGU-)◆ 宇治橋(UJI-BASHI)

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伊勢神宮(-JINGU-)◆ 宇治橋(UJI-BASHI)

造営年

  • 不明
  • 推定:800年から1192年(平安時代)
所在地

  • 三重県伊勢市宇治舘町(伊勢神宮・内宮入口)
橋梁上部の建築様式(造り)

  • 単純桁橋
橋梁下部(橋脚)の建築様式(造り)

  • 筋交付3柱伝統形式木製橋脚
支承(ししょう)の形式

  • 台持木(7本)

※橋の床下を支える木

  • 橋脚の数:3本立ちの合計13組
    合計39本のケヤキ材
  • 橋脚杭:3本
  • 水貫:4本
  • 筋交貫:4本
  • 梁:1本
大きさ

  • 長さ(全長):336尺(約101.8m)
  • 横幅:約8.42m
高欄(こうらん)の柱の数

  • 全12基(本)
袖柱の数

  • 全4基(本)

※高欄と袖柱合わせて先端に16基の「擬宝珠」付き

中央部の反り高

  • 6尺(約1.8m)
材質

  • 橋梁上部:ヒノキ
  • 橋脚杭部:ケヤキ
橋梁上部床板の枚数

  • 約370枚
橋梁上部床板の厚さ

  • 約15cm
工期

  • 約1年3ヶ月
宇治橋の別名

  • 御裳濯橋(みもすそばし)




宇治橋が御裳濯橋と呼ばれる言葉の由来

宇治橋は別名「御裳濯橋」とも呼ばれています。

御裳濯という字は、少し読みにくい字となりますが「みもすそ」という読み方をします。

これは、五十鈴川の別名が「御裳濯川(みもすそがわ)」であり、この川に架かる橋梁という意味合いで「御裳濯橋」と呼称されています。

「御裳濯」の意味って??

「御裳濯」の由来としては、八咫鏡を携えて旅を続け、旅の果てにこの伊勢の地に神宮を創建した「倭姫命(やまと ひめのみこと)」が、旅の途中で「御裳(みも)」という十二単のような着物を、この川で洗ったと云われています。

このことに因んで「御裳」と付けられ、さらに「濯(たく)」は、洗濯機の「濯」となり、これは水で「そそぐ」「ゆすぐ」などの意味合いがあります。

ちなみに、山口県の下関にも同様の名前の川(御裳濯川)がありますが、川の由来は同じく、平安時代の宮中の女官が着物を洗い清めたとされています。

伊勢神宮・内宮(皇大神宮)宇治橋が創建年(架橋された年)はいつ頃?

この宇治橋は『いったいいつ頃から、この場所に存在するのか?』という疑問が浮かびますが、実のところ宇治橋の創建については判然としておらず、宇治橋に関しての記録が文献上、初出となるのが1190年代(建久年間)に著された「皇太神宮年中行事」の中に見える「津長神社の橋」になります。

津長神社は現在、饗土橋姫神社の隣りで小山の上に鎮座していますが、かつては五十鈴川の川辺まで社地が広がっていそうです。当時、この津長神社では盛大な祭典が執り行われており、その斎場付近には五十鈴川を遡上してきた船の船着き場まであったようです。この津長神社の斎場に渡された橋であったと推察されます。

ただし、この当時の橋は現在見られるような橋桁がキレイに組まれたものではなく、幅が狭い上、橋桁が低く、川面すれすれに組まれていた簡素な橋であったと推察されています。

河崎氏が著した「河崎氏年代記」によれば、1435年(永享6年)に時の将軍・足利義教が下向した際、参宮し、このとき橋を奉納する形で架橋したようです。これが現在見られるような大橋となる宇治橋の原型になるようです。

宇治橋が架橋されていない頃は川に入って渡っていた?!

宇治橋が架橋されていない頃は、御正宮参拝前の禊を兼ねて五十鈴川に直接、ドボンっ!‥と入って向こう岸まで渡っていたそうです。

五十鈴川はそれほど水深がない上、普段は水流も穏やかなので、架橋する必要がなかったものと考えられます。

えぇっ?!宇治橋は右側通行なの?

宇治橋の手前まで来ずに、少し離れた位置からでも目視できますが、宇治橋の袂(たもと)のド真ん中には威圧感を放つほどの存在感を持った立て札(看板)が置かれています。

この看板にはこう書かれています。

右側通行

宇治橋の右側通行の理由は、単純に神宮が定めた決め事なので、やぶさかなくと言った所です。

しかし、これには次のような意味合いもあります。

  • 中央が神様が通る道
  • 内宮は手水舎が参道の右側にあるため

現在では宇治橋の向こう側は神域とされていますが、江戸時代、現在の神苑一帯には民家や商家が立ち並んでおり、かつてそこに住んでいた民家や商家の住人たちの意見が反映されて、右側通行となったとも云われます。

宇治橋の向こう側は神域ではなく「民家??」

上述したように現在でこそ宇治橋を渡った先は神域とされていますが、江戸時代は民家や商家が立ち並んでいたようです。

しかし現在の一般的な通念上、橋を越えた先は「神域」と解釈されてます。

ただ、神宮の神官から見た宇治橋の先とは「神域ではない」という見解もあり、ここで一般参拝者との見解の相違が出てきます。

しかし、自身が神域と思えばそこは神域であり、他人が神域でないとするのであればそれは神域ではないのでしょう。

ただ、御正宮に関しては、御垣で結界が張り巡らされており、御垣の向こう側は神界となりますので、ここは完全な神域として理解しておかなければならないところです。




えぇっ?!鎌倉時代や室町時代には僧侶が宇治橋を造っていた!!

これはあまり知られていないようですが、鎌倉時代や室町時代の宇治橋の建て替えは、なんと!僧侶や仏教徒が中心となって行っていたそうです。

鎌倉期や室町期と言えば、戦乱の世です。戦乱の世ともなれば、戦続きで土地は荒れ果てて、浄財(資金)なども当然、望める状況ではなく、長く式年遷宮を執り行えませんでした。

そこで、この惨状を見かねた「勧進聖(かんじんひじり)」と呼ばれる旅の僧侶たちが、神宮の神官たちに代わって日本全国を駆け回って資金を調達したのでした。

日本全国を巡るうちに、この話を聞きつけた仏教徒がさらに寄り集い、ついには神宮復興を目標とした一大組織が形成されることになります。

後にこの組織は「慶光院(けいこういん)」と呼ばれる臨済宗の寺院(尼寺)を建てて、これを根城とし、時の権力者および幕府や朝廷(天皇)に神宮復興を働きかけたのです。

慶光院とは?

慶光院とは、上述の勧進聖たちの功績を認めた後奈良天皇が1551年(天文20年)に「慶光院」という院号を授けたのが起源です。

勧進聖の中でも特に活躍が目覚しかった「守悦上人(しゅえつしょうにん)」を初代座主に据え、以後、慶光院は座主の制度が踏襲されることになります。

その後、慶光院の名前が全国的に広まるキッカケとなるほどの人物が現れますが、その人物を「清順上人」と言います。

清順上人は自らの勧進活動によって1549年(天文18年)に宇治橋の建て替えを行い、1563年(永禄6年)には外宮の遷宮を成し遂げています。実に130年ぶりの遷宮でしたので、噂話に華が咲き、日本全国に名前が知れ渡ることになります。

そのあとを継いだ4代目「周養上人」も力を発揮し、時の権力者「織田信長」より3000文、さらに太閤秀吉からは金子500枚に米1000石もの寄進を受けるに至っています。

そして1585年(天正13年)に奇跡ともいうべき「両宮遷宮」つまり、「第41回式年遷宮」という大偉業を達成したのでした。実に124年ぶりだったそうです。

これ以後の遷宮は、江戸幕府→明治政府の管理下に置かれる形で20年おきに斎行され、現在に至るというわけです。ウフ

賽銭を投げ入れる風習が明治時代まであった?!

江戸時代に差し掛かるとお伊勢参りがブームとなりますが、なんと!外宮付近の宮川や、この内宮・宇治橋の足元を流れる五十鈴川に、ドブンっ!飛び込んで水垢離(みずごり)をする人も出現したそうです。

川に飛び込んだ理由は、お伊勢詣する人々の代理で水垢離行(みずごり)をするためです。

これら人々は主に「伊勢乞食(いせこじき)」と呼ばれた人たちで、参拝者に物乞いをする人が後を絶たなかったようです。中でも伊勢への参拝者は他の寺社と比べて段違いで多かったことから乞食の数も多く、後に「伊勢乞食」なる言葉まで生まれています。

しかしやはり本来であれば、天照大御神の御神徳を帯びた神聖な五十鈴川で、シッカリと全身を清めてから参拝したいところ。しかしなかなかそうは行かないのが現実です。

そこで川の上から賽銭を投げてもらうことで代理で水垢離をする人々が登場するわけです。

下の墨絵は寛政9年(江戸時代)に描かれた「伊勢参宮名所図会」と呼ばれる古絵図の一部分ですが、よく見ると宇治橋の上から賽銭を投げる人と、その賽銭を網で受け取る人が描かれているのが分かります。

画像引用先:せんぐう館

この上さらに、代理で水垢離を行う人たちは、かなり特徴的な形状の網を手に持っている様子がうかがえます。よく見れば受け取りやすいように虫取り網を改造して裾部分をスカート状に広げて固定したような網がみえます。

やがてこのような代理で水垢離をする人々は「代垢離(だいごり)」と呼ばれるようになり、新たな風習が誕生することになります。

この代垢離の風習はなんと!明治時代中期に廃止されるまで続いたそうですが、川に落ちた硬貨は長年、川水に浸かるとやがて腐朽化し、川が汚れる原因にもつながります。

また、水にすぐ沈むことから探すのが困難ということも相まって、明治時代になると硬貨ではなく、水に浮かび上がる木の玉が投げられるようになったようです。

この木の玉は宇治橋鳥居前の広場に出店しているお店で買い求めることができて、代垢離を依頼したい参拝者はこの玉をお金で買うわけです。一方、川水に浸かって代垢離を受ける人は投げられた木の玉をお店に返却することでお金に換えることができたというわけです。

このような代垢離をする人々が登場した背景には、やはりまずは「伊勢乞食(いせこじき)」と呼ばれた人たちが多かったのと、「代垢離」を面白がって宇治橋から賽銭を投げる人が跡を絶たなかったことが原因の1つに考えられます。

現に今も五十鈴川には「硬貨を投げ入れないでください」の旨が書かれた看板が掲げられているほどです。皆さんもくれぐれもご注意を。オホ

伊勢神宮・内宮(皇大神宮)宇治橋の特徴

えぇっ?!宇治橋の床板は「6cmも歪み」がある?!

宇治橋は1969年(昭和44年)の建て替えの工事の際、足元部分にコンクリートが用いられて補強がされています。

ただ、これだと見た目が良いとは言えませんので伝統的な景観を維持するために石畳が用いられています。

なお、遷宮後も神宮司庁・営繕部の管理下で定期的な点検と清掃が実施されています。

定期的な点検を実施する理由とは、年間600万から800万人が訪れることもあり、明治時代以前では6cm規模で床板に隙間が出来たそうです。

現在では、隙間が見当たらないことが分かりますが、これには上記の定期的な点検と職人の技の冴えという解釈が成り立ちます。

宇治橋を造るために関わった職人芸

内宮へ向かう最中、胸躍る気持ちで、前だけを見て参道を進む方がほとんどです。

しかし、宇治橋を渡った時に足元を見れば、ここで職人の技を目にすることができます。

上記でも、お話しましたが、宇治橋の床は「橋のたもと」から「たもと」まで、隙間なく埋め尽くされているのに気付くことができます。

これは「スリ合わせ」という技法を用いて造られています。

「スリ合わせ」の技法

「スリ合わせ」の技法は現代でも、フラスコなどのガラス細工に活用されることの多い技法ですが、神宮の遷宮においては、絶妙な加減で、隙間なく床板を敷き詰める際に活用されています。

「スリ合わせ」の技法の原点は、古来、木造船を造る際に活用されてきたのが発祥となっています。

神宮の工事に関わる大工は、そのほとんどが古からの職人技を受け継いだ大湊町の船大工さんたちなので、船大工の技を併せ持つ大工もいます。

近代に差し掛かり、木造船が造られなくなってからは、船大工の数も減少し、通常の大工に生業を変えて、生計を立ててきた名残ともいえます。




宇治橋の式年遷宮後の渡り初めの「渡始式」

伊勢神宮の内宮では、遷宮後の宇治橋の一大行事とも言える「宇治橋渡始式(わたりはじめしき)」という儀式があります。

宇治橋の式年遷宮後の渡り初めの「渡始式」この儀式は朝10時に開始され、年々、多くの参拝者が訪れることで有名です。

そして、参拝者の数は増加傾向にあると言われており、軽く3万は超えるといいます。

中でも特に目玉と言えるのが、20年に1度しか授かることのできない「木札」が午後4時から授与していただけることです。

ただ、木札には数に限りがあるので注意が必要です。

この儀式のもう1つの目玉の見どころとなるのが、地元の伊勢市内(旧・神領内)から抽選で選ばれた「渡女(わたりめ)」と呼ばれる「1家で3代の夫婦が健在する一家の老女(おうな)」が、遷宮(架け替え)後、「日本で1番最初に足を踏み入れた一般人」となるシーンです。

さらに、老女(おうな)の後にも、約60組・計約350人もの、日本全国から参加した「供奉三夫婦(ぐぶのみふうふ)」と呼ばれる3世代夫婦が続きます。

なぜ、1家で3代の夫婦なの?

1家で3代の夫婦と渡始式との由来は、昔は特に1家で3代の夫婦が健在する家庭が極めて数が少なく「おめでタイっ!!」・・などといったことになると云われています。

これは何もこの宇治橋の「渡始式だけに限らず、日本全国のイベントや行事で1家3代の夫婦による渡りの儀式が執り行われています。

宇治橋鎮守神と1万回祈祷の御札「萬度麻」

宇治橋渡始式の儀式でも1番の見所となるのが、「擬宝珠(ぎぼし)」に「萬度麻(まんどぬさ)」と呼ばれる御神札を奉納する場面です。

宇治橋鎮守神と1万回祈祷の御札「萬度麻」

宇治橋付近にある「饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)」の御祭神には「宇治橋鎮守神」という神様がおられます。

神宮では、宇治橋の建て替え工事までに、この神様へ約1万を数えるご祈祷が重ねられるといいます。名前が”萬度幣”である理由が納得できるというものです。

その時に祈祷を重ねた「萬度麻」を宇治橋の「擬宝珠」の中へ、宮大工たちの手により納めるのです。

「萬度麻」という、神札を宇治橋の「擬宝珠」の中へ宮大工たちの手により納める

「擬宝珠(ぎぼし)」とは、「永沢くんのド頭(どたま)」のような形をした金物細工で、お寺でよく見かける「高欄(こうらん/橋の両側の柵)」の「柱の上に覆いかぶせる部品」となります。

擬宝珠は本来、仏教が発祥となり、したがってお寺に多く見られるものであって、これは「仏舎利(お釈迦様の骨壺)」を意味すると云われております。

一方で神社建築による擬宝珠とは、神宮の正宮・御正殿の擬宝珠を模して造られたと云われており、神社では「天皇と縁のある社格を持った神社」にのみ、擬宝珠を取り付けることが許されていると伝えられています。

なお、神宮内では擬宝珠とは呼ばずに「葱花型金物(そうかがた かなもの)」と呼ばれます

「葱花型」とは、つまりは「葱頭(ネギあたま)」のことで、クソほどハゲたド頭を、3ヶ月間放置した後のコノヤローなド頭の状況のことを言います。

・・・こホんっ!すぃつ礼っ(訳:失礼)

宇治橋の擬宝珠の文字(刻銘)について

宇治橋の創建は不明とされていますが、「宇治橋の擬宝珠」には「建て替えられた年数」や、創建年の手がかりとなる人の手で彫られた以下↓のような刻銘(刻みこんだ文字)が残されています。

宇治橋の擬宝珠に彫られた文字

天照皇太神宮 御裳濯川 御橋 元和五己未年 三月

「天照皇太神宮 御裳濯川御橋 元和五己未年 三月」 (2)

徳川秀忠公が1619年(元和5年/江戸時代初期)に宇治橋を奉納した際の刻銘です。

実は宇治橋の擬宝珠にはすべて刻銘がありますが、「天照皇太神宮」「御裳濯川 御橋」の刻銘があるのはこの擬宝珠だけです。

これには理由があって、この擬宝珠の中にこそ、上記の萬度麻が収められているからです。

なお、この擬宝珠は特徴があるので他の擬宝珠と比較して形状や色が若干異なります。

  • 擬宝珠の先ちょが他と比べて尖っている
  • 玉ねぎの”ねぎっ!”の部分(もっともふくらんでいる部分)が他の擬宝珠と比べてふくらみがある どんな部分や
  • 他の擬宝珠と比べて色が薄い(他のは黒っぽい)

なお、こちらの萬度麻が収められた擬宝珠は、宇治橋鳥居の足元、向かって左側にあります。

こちら↑の航空写真で「お札擬宝珠」と紹介されている、端から2番目の擬宝珠です。

宇治橋は右側通行が決まりになっていますので、この擬宝珠を見たい場合は参拝帰りになります。

平日の早朝であれば人が極端に少ないないので反対側の通路にパピュっと移動することもできるでしょう。これも早朝参拝の魅力であり、楽しみの1つです。




嘉永六癸丑年6月

「嘉永六癸丑年6月」

1853年(嘉永6年/江戸時代後期)6月の吉日に奉納されたことを告げる擬宝珠です。

1853年から一度も交換されずに繰り返し使用されてきた歴史を物語っています。

伝統を重んじる神宮の宮域ならではの光景です。

奉行 山口丹波守 源直信 嘉永六癸丑年 六月吉祥日

「奉行 山口丹波守 源直信 嘉永六癸丑年 六月吉祥日」

現在は跡地として石碑だけが残されていますが、外宮近くにはかつて「山田奉行所」がありました。1850年(嘉永3年)~1868年(安政5年/江戸時代後期)に山田奉行を務めた山口丹波守直信が奉納した事実を刻んだ擬宝珠です。

御鋳物師 蛸路住 常保河内作

「御鋳物師 蛸路住 常保河内」

これは擬宝珠を製作した人物が誰であるのか?を知らせる擬宝珠です。

『蛸路住』とは、現在の『三重県松阪市上蛸路(かみたこじ)町』のことです。

つまり、蛸路(松坂市上蛸路町)在住の「常保河内」と言う人物であることが分かります。

常保河内の”河内”とは、河内鋳物師のことを指すとみられ、これはかつての「禁裏御用鋳物師の誇り」を意味するものだと推察されます。

「常保」とは、名工集団とまで謳われた「常保鋳物師」のことを意味するものと思われます。

蛸路には、鋳物師集団が居処しており、そのルーツは東大寺大仏を鋳造した河内鋳物師集団だと云われます。

常保一家は、三重県度会町に位置する「國束寺(くづかじ)」、「伊勢寺」「横滝寺」の梵鐘を鋳造したことで知られています。

これらの擬宝珠も神宮の隠れた観光スポットと言えます。

内宮へ参拝に訪れた際は、ぜひ、ご覧になってみてください。

万度麻の入った擬宝珠を触ると‥こんなご利益が得られる?!

この万度麻が封入された擬宝珠は、他の擬宝珠と比べて色が異なると言われています。実際に見て分かりますが茶色く錆びているようにも見えます。

なんでもこの万度麻が入った擬宝珠を参拝帰りに触れることで、再び、伊勢神宮に参拝することができるご利益を授かることができるとのことです。

また、帰る際の厄災から身を守ってくれるとも言われています。

以上のような理由から、この話を聞きつけた365日、大多数の方が触ってから帰るので表面のメッキが剥がれてきたのだと推測ができます。

宮域に入って3枚目の木板を踏むと金運が上がる?!

現在では、宮域に入って3枚目の木板をしっかり足が収まるようにして踏むと金運が上がるなどいう俗説まで出回っているようです。

ここでの宮域とはすなわち「宇治橋」のことです。宇治橋は右側通行なので、右側の3枚目の板になります。

なんでも銭の別の言い方である「お足」を銭に例えて「足が入る=銭が入る」とした、願掛けのようなものだとか。このように「銭」を「お足」と呼ぶのは「女房詞(にょうぼことば)」と呼ばれるものです。

女房詞は、室町時代初期頃に宮中や院に仕えた女房が使い始めたのが起源とされ、驚くことになんと!その一部は現在でも日常的に用いられています。

その代表例が「おなら」「おから」「おでん」「おなか(腹)」です。

どうしても願掛けする際は橋の端で!

ただ、この願掛けを行う際は、他の参拝される方の邪魔になるという意識をもって行ってください。急に立ち止まると後ろの方が驚きますので、必ず、自分の後ろに人がいないかを確認してから行うのと、人の邪魔にならないよう橋の端でする必要があります。

早朝参拝であれば、ほとんど人がいないのでしやすいと思います。

宇治橋の歴史(年表)

できごと
800年〜1192年※平安時代〜鎌倉時代現在の推定ではこの間に宇治橋が創建されたと伝わる。
1190年代(建久年間)※鎌倉時代文献上、宇治橋の名前が初出となる。(皇太神宮年中行事)ただし、宇治橋とは書かれていない。この頃は特に名前が無く、ただの「橋」。
1342年(康永元年)※室町時代「伊勢太神宮参拝記」にも「五十鈴川の橋」の記述が見られる。
1464年(寛正5年)※室町時代内宮大橋勧進聖と名乗る聖(ひじり)の登場により架橋されるが、のちに倒壊す。
1505年(永正2年)※室町時代守悦法師が御裳濯橋の架橋に成功する。「御裳濯橋」の名前が登場。のちに倒壊す。
1547年(天文16年)※室町時代清純(のちの慶光院上人)が架橋に成功する。のちに倒壊す。
1619年(元和5年)※江戸時代時の将軍・徳川秀忠が宇治橋を造替(架橋)す。以来、現在まで滞りなく20年毎に式年遷宮が執り行われる。
1629年(寛永6年)※江戸時代第43回式年遷宮
1649年(慶安2年)第44回式年遷宮
1669年(寛文9年)第45回式年遷宮
1689年(元禄2年)第46回式年遷宮
1709年(宝永6年)第47回式年遷宮
1729年享保14年)第48回式年遷宮
1749年(寛延2年)第49回式年遷宮
1769年(明和6年)第50回式年遷宮
1789年(寛政元年)第51回式年遷宮
1809年(文化6年)第52回式年遷宮
1829年(文政12年)第53回式年遷宮
1849年(嘉永2年)※江戸時代第54回式年遷宮
1869年(明治2年)※明治時代第55回式年遷宮
(1889年明治22年)第56回式年遷宮
1909年(明治42年)第57回式年遷宮
1929年(昭和4年)※昭和時代第58回式年遷宮
1949年(昭和24年)第59回式年遷宮は太平洋戦争最中に斎行。宇治橋は腐朽・破損箇所が多かったので宇治橋のみ遷宮が実施される。他は4年後。
1973年(昭和48年)第60回式年遷宮
1993年(平成5年)※平成時代第61回式年遷宮
2013年(平成25年)第62回式年遷宮




宇治橋の鳥居について

宇治橋を語る上で忘れてならないものが鳥居です。

宇治橋の鳥居は、御正殿と関わりの深い鳥居です。

宇治橋の鳥居に関しては以下のページにてご紹介しています。

宇治橋で見る幻想的な「初日の出(日の出)」と日が昇る頃合と時間

宇治橋を語る上で忘れていけないのが、「日の出(初日の出)」です。

宇治橋で見る幻想的な「初日の出(日の出)」と日が昇る頃合と時間

神宮の参拝話を伊勢参りのツウなベテランから伝え聞くとき、「早朝参拝」という言葉をよく耳にすることがあります。

なぜ、早朝参拝が良いのかというと、1番の醍醐味は宇治橋から見ることのできる「日の出」を見れるからだといいます。

まだ薄す暗く、参拝客も少ないので、まさに「日の本の一」とも呼べる絶景の日の出を、独り占めしたような気分になれるといったことでしょうか。

なお、宇治橋の写真でよく見かける「鳥居の中央部分からの日の出」が見られるのは、「12月20日以降から1月7日頃」の、「朝7時から7時30分にかけて」だそうです(冬至)。

伊勢をよく知る地元の人の話によれば、冬至になると、この宇治橋(宇治橋の鳥居)から朝日が昇り、満月は二見興玉神社の夫婦岩の間から現れるそうです。

ただし、正月の初詣期間や元旦には、初日の出を見ようと日本全国から多くの方が押し寄せますので、他の参拝客で見えない恐れがあることだけは、念頭に置いておかなければなりませんね。…エッへん。

冬至に宇治橋で初日の出が見れる理由

宇治橋の前に立つとまっすぐ向こう岸までピシっと通っている印象がありますが、実はこの宇治橋は徳川時代初期(1619年/元和5年/徳川秀忠)に架橋された際、従来よりもなんと!28度斜めに架橋したそうです。

この理由は、ズバリ!橋と両端の鳥居の中央から初日の出を拝めるようにしたからです。

28度とした理由は、上述したように冬至の日の出の方位に合わせたからです。(冬至は例年おおむね12月22日頃)

通例では冬至の日は、真東より30度南寄りの方位から日が昇りはじめ、真西より30度南寄りの方位へ沈んでいきます。

この太陽軌道を計算に入れて架橋されたからこそ、現在の宇治橋で日の出が拝めるワケなんですね。

宇治橋の守護神「饗土橋姫神社」

宇治橋の守護神・饗土橋姫神社

あまり知られていませんが、この宇治橋には、橋を守護する神様がおられます。

すなわち、宇治橋には神様がお宿りになっておられ、神域へ足を踏み入れる参拝者の心根を見定めておいでになっています。

同時にこの神様は、参拝を終えた参拝者1人1人、無事に大切な家族の待つ家へ帰れるように、御神徳をお授けになってくれます。

この神様の名前を「宇治橋鎮守神」といいます。

宇治橋鎮守神は宇治橋に鎮座されているワケではなく、宇治橋のほぼ直線上の小山の奥にある「饗土橋姫神社」に鎮座しています。

饗土橋姫神社は、遷宮時、神宮の所管社の中でも、1番最初に建て替え工事が開始されるお社として有名です。

理由は、宇治橋の架け替え工事前に祈祷を行うためです。

えぇっ?!神宮の遷宮は宇治橋だけ4年も前にしている??

これも伊勢の地元以外ではあまり知られていないかもしれませんが、宇治橋における遷宮の儀式は、他の遷宮の儀式とは違い、なんと!4年も前に執り行われているのです。

4年も前に執り行われている理由は、第二次世界大戦の最中、日本の相続く敗北によって、第59回の式年遷宮の儀式が昭和天皇の勅令によって、1953年(昭和28年)に変更になったからです。

しかし、地元・伊勢の人々は「宇治橋だけでも建て替えてさせて欲しい」との熱い要望を出します。

この要望に対して天皇陛下は一部、勅令の内容を変更なさり、宇治橋だけ先に造り替えることをお認めになられたのです。

こうして、宇治橋以外の遷宮の儀式は勅命の通り、4年後の1953年(昭和28年)に執り行われる運びとなり、宇治橋と他の社殿の遷宮との間に「4年」という年月の開きができてしまったというワケです。

伊勢神宮・内宮「宇治橋」の場所(地図)

宇治橋は内宮の出入口となる橋です。おかげ横町(おはらい町通り)から直進すればやがて終着地点となる宇治橋の鳥居と宇治橋が見えてきます。

伊勢神宮・内宮(境内)のおすすめの参拝ルート

おわりに・・

鉄道唱歌でも謳われた神宮の宇治橋

鉄道唱歌とは、明治時代の汽車(鉄道)の車内などで鼻歌や演奏で歌われた歌で、当時では大流行した歌のことです。

その第5集には、神宮の宇治橋のことが歌われています。

鉄道唱歌 第5集 関西参宮・南海編・26番

五十鈴の川の宇治橋を わたればここぞ天照す皇大神(すめおおかみ)の宮どころ 千木たかしりて立ち給う

これは作者の心の情景がよく表現された歌詞です。

宇治橋のたもとに立った瞬間に神宮に来たんだという畏敬の念に囚われて、すくみあがってしまい、緊張のこわばりにも似た「神妙な気配に包まれている」といった作者の気持ちがシンミ~リと、伝わってくる名句とも言えます。

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