伊勢神宮(-JINGU-)◆大水神社・川相神社・熊淵神社(OMIZU-JINJA)

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伊勢神宮(-JINGU-)◆大水神社・川相神社・熊淵神社(OMIZU-JINJA)

⬆️正面からのアングル⬆️階段したからのアングル

創建年

  • 不明
  • 推定:垂仁天皇26年
建築様式(造り)

  • 切妻造
  • 平入

※神明造り

屋根の造り

  • 板葺き
御祭神

  • 大山祗御祖命(おおやまづみのみおやのみこと)
  • 細川水神(ほそかわのみずのかみ)
  • 多支大刀自神(たきおおとじのかみ)
社格

  • 大水神社※伊勢神宮・内宮(皇大神宮)「摂社」
  • 川相神社※伊勢神宮・内宮(皇大神宮)「末社」
  • 熊淵神社※伊勢神宮・内宮(皇大神宮)「末社」
主な神事

  • 神嘗祭(10月22日)

大水神社の読み方

大水神社は「おおみずじんじゃ」と読みます。

川相神社の読み方

川相神社は「かわあいじんじゃ」と読みます。

熊淵神社の読み方

熊淵神社は「くまぶちじんじゃ」と読みます。

大水神社の歴史・由来

大水神社の創建年について

大水神社の創建年は不詳とされていますが、1880年(明治13年)に出版された「神宮摂末社以下明細取調帳」の記述によれば、創建は垂仁天皇の時代とされており、これすなわち、伊勢神宮内宮の創建と極めて近い年代だということになります。

延暦儀式帳よれば創建当初の社地面責は2町5反(約24,793m2)を誇り、これは現・東京ドームの約半分の面責に相当します。皇大神宮儀式帳の記述によれば、大水神社には祝部の位の神職(/=禰宜の1つ下の位の神職)が奉仕することが義務付けられいたとされ、社殿の造替も国郡司(現在の県知事や都知事に相当)が管理したことから、位置付け的には重要な社であった事実がうかがえます。

しかしながら、時代を下る過程において衰微し、社地に民家や寺院、林崎文庫が建てられ始めると社地が縮小していきます。




室町時代

伊勢神宮の禰宜を務めた荒木田氏経が1402年~1487年にしたためた自筆の日記である「氏経神事記」によれば、1482年(文明14年)正月15日に、大水神社の神事を担当していた神職(祝部)が、神事を奉仕していた旨の記載が残されており、これが事実であるならば1482年以前には社殿が存在していたことになります。

室町時代以降〜江戸時代まで

以後、神事が断絶状態に陥るのですが、引きづられる形で社殿も衰微し、やがて廃絶に至っています。

ただ、伊勢神宮の大宮司を務めた河辺精長により、1662年(寛文3年/江戸時代)12月21日に遷御(せんぎょ)の儀が執り行われており、以来、当神社が復興され、同時に祭典が再興されています。

明治時代

1871年(明治4年)になると、現今に見られるように川相神社・熊淵神社とで合祀される形で1つの社殿で同座されることになります。

1877年(明治10年)9月には、神宮内での職制が改正され、守衛が置かれることになったようです。

昭和時代

1918年(大正7年)7月と、1956年(昭和31年)2月にに社殿の造替が執り行われています。

1977年(昭和52年)3月24日には大修理が執り行われており、無事完了しています。

ちなみに大水神社の社格は内宮の摂社27社のうち第16位になります。

川相神社の歴史・由来

川相神社の創建年について

川相神社の創建年や創建された場所にについては不詳とされているため、いっさいが謎に包まれていますが、元来、五十鈴川の上流に社地があり、鎮座していたようです。

1871年(明治4年)になると、現今に見られるように大水神社・熊淵神社とで合祀される形で1つの社殿で同座されることになります。

なお、川相神社の社格は内宮の末社16社のうち第10位になります。

熊淵神社の歴史・由来

熊淵神社の創建年や創建された場所にについても不詳とされていますが、川相神社と同様に、元来、五十鈴川の上流に社地があり、鎮座していたようです。

同じく1871年(明治4年)になると、現今に見られるように大水神社・熊淵神社とで合祀される形で1つの社殿で同座されることになります。

熊淵神社の社格は内宮の末社16社のうち第11位になります。

大水神社の御朱印の種類・初穂料(値段)

残念ながら大水神社では御朱印の授与をしていません。

川相神社の御朱印の種類・初穂料(値段)

残念ながら川相神社では御朱印の授与をしていません。

熊淵神社の御朱印の種類・初穂料(値段)

残念ながら熊淵神社では御朱印の授与をしていません。

以上、3社では御朱印の授与はありませんが、伊勢神宮では御朱印を授与されています。伊勢神宮の御朱印についての詳細は下記ページをご参照ください。

3社のすぐ近くで御朱印を授与されている神社

実はこの饗土橋姫神社のすぐ隣りには、宇治神社‥通称「足神さん」と呼ばれる神社があります。徒歩約3分くらいの距離です。

⬆️3社と足神さんの位置関係図

この足神さんでは御朱印を授与されています。ただし、神主さんが常に授与所におられるワケではありませんので、ご注意ください。万が一、留守の場合は書き置きタイプの御朱印になりますが、郵送にて授与していただくこともできます。

宇治神社(足神さん)についての詳細は下記ページをご参照ください。ウフ

大水神社の御祭神「多支大刀自神」

大山祇御祖命は「おおやまづみのみおやのみこと」と読みます。「大山津見神」「大山積神」「大山罪乃御祖命」などと書かれることもあります。

一般的には「大山祇神」と書かれることが多いです。

伊弉諾命(いざなぎのみこと)・伊弉冉命(いざなみのみこと)の御子神であり、位置付け的には幾多もいるとされる山の神の総大将になります。

愛媛県今治市大三島町にある「大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)」が全国に散らばる大山祇神を祀った神社の総本社になります。

なお、社名が「大水」であるのに対して、祭神に「山の神」が祀られていることから、その由緒を疑う声もあるとのことです。

川相神社の御祭神「細川水神」

細川水神は「ほそかわのみずのかみ」と読みます。川の神です。大阪府池田市にも同名の神社が存在しますが、如何せん、御祭神の由来ついては水の神とされる以外の詳細は不詳のようです。

熊淵神社の御祭神「多支大刀自神」

支大刀自神は「たきおおとじのかみ」と読みます。

大水上命(おおみなかみのみこと)の子神とされ、石清水の守護神でもあります。




見どころ

大楠

当神社には社殿を覆い隠すほどの大きな楠とその枝が目をひきます。大楠は樹齢200年以上、幹回りが8メートル、樹高約15メートルはあると思われます。

当神社が立つ頃からこの場所に自生していた、もしくはそれ以前から当地で自生していた楠だったのでしょうか?石垣がこの楠を避ける形で周囲に張り巡らされている様子がうかがえます。

⬆️図太い幹とその後方に見えるのは林崎文庫の瓦付き土塀

林崎文庫

⬆️林崎文庫の出入口。現在、一般公開はしていない。

当神社の背面には、現在の「神宮文庫」の前身である「林崎文庫」があります。

林崎文庫は1690年(元禄3年)に内宮祠官の学問所として創設されましたが、1907年(元禄3年)に神宮文庫が倉田山に新たに創設されたため、収蔵されていた図書はすべて神宮文庫へ移管されています。

現在に至っては建物・土地などが1954年(昭和29年)に国指定・史跡の指定を受けています。

林崎文庫の一般公開について

林崎文庫は現在、一般公開されていません。今後、公開される予定があるのは定かではありませんが、見学してみたい方は伊勢神宮の公式HPの最新ニュースをチェックしておいてください。

⬆️内宮A2駐車場に面した出入口にも「立入禁止」の立て札が立てられている。

大水神社・川相神社・熊淵神社の例祭

当神社では例年、巡回形式で神事が執り行われています。大水神社で執行される祭祀は津長神社と同じです。

以下の神事においては当神社の社殿前で斎行されています。

祈年祭(2月)、月次祭(6月)、神嘗祭(10月)、新嘗祭(11月)、月次祭(12月)

以下の神事は離れた場所(内宮宮域)にて遥祀にて執り行われています。

歳旦祭(1月)、元始祭(1月)、建国記念祭(2月11日)、風日祈祭(5月)、風日祈祭(8月)、天長祭(12月23日)

伊勢神宮・内宮「大水神社・川相神社・熊淵神社」の場所(地図)

津長神社は、宇治橋とほぼ正対する形で真正面の方向に位置します。宇治橋前から徒歩約2分の距離です。すぐ隣には饗土橋姫神社(あえどばしじんじゃ)が鎮座しています。キラん⭐︎

  • 所在地:三重県伊勢市宇治今在家字林崎163-1




宇治橋から大水神社・川相神社・熊淵神社への行き方

宇治橋の鳥居をくぐり抜けて→宇治橋の脇にある衛士見張所の前を通り過ぎて→その向こうに見える道路を進みます。

やがて横断歩道が見えますので、横断歩道を渡って右へ進みます。→すると内宮A駐車場とその奥にタクシー乗り場が見えます。このタクシーのりばの奥の森林の中に大水神社がありますので、駐車場へ入って奥に向かって歩いていきます。

初めてお伊勢参りされた方であれば、少し迷うかもしれませんので、宇治橋脇の「衛士見張所」には「参宮案内所」が併設されていますので、こちらでお尋ねになってみてください。

⬆️大水神社手前の参道(山道)の様子

⬆️饗土橋姫神社の手前から撮った写真

【補足】摂社・末社の違いとは?

現在では、従来のような神社の社格はありませんので、明確な基準のようなものがあるわけではありません。そもそも摂社・末社とは境内にある小規模な社、および祠(ほこら)のことを指します。

明治時代に新たに定められた社格制度によれば、以下のような規定がありました。

摂社の条件

御本殿で祭祀されている御子神や妻神、もしくは本殿の創建以前から祀られている神、地主神など。

末社の条件

基本、摂社以外の社。

伊勢神宮は摂社・末社の規定が残されている

しかしこと伊勢神宮に関しては、現在でも一応の社格制度が存在し、社格によって摂社・末社などを取り決めているようです。伊勢神宮における社格は延喜式神名帳(えんぎしきじんめいちょう)に記述されているものが摂社。

延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)に記されているものが末社と定めています。

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