伊勢神宮(-JINGU-)◆ 風宮(KAZE-NO-MIYA)

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伊勢神宮(-JINGU-)◆ 風宮(KAZE-NO-MIYA)

創建年

  • 推定約997年(長徳3年)以前
建築様式(造り)

  • 切妻造り
  • 平入
  • 掘立柱

※神明造り

屋根の造り

  • 茅葺き(萱葺)
鰹木の数

  • 5本
千木の形

  • 鋭鋒型(外削ぎ)
素材

  • 檜(ヒノキ)
大きさ(正殿)

  • 棟持柱の高さ(地面から棟まで):不明
  • 梁間:不明
  • 桁行:不明
鳥居の形式(境内)

  • 神明鳥居(伊勢鳥居)
御祭神

  • 級長津彦命
  • 級長戸辺命
社格

  • 伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)「別宮」

「風宮」の読み方

「風宮」は「かぜのみや」と読みます。

なお、伊勢神宮・内宮の4別宮の内第4位の社格となっております。

風宮の名前の由来

風宮は古くから当地に建っていたとされ、平安時代は「風社(かぜのやしろ)」と呼ばれた。

風は雨と同様、農業と関わりが深く、古来、稲などの農作物が無事に生育するようにとの祈りが捧げられてきた歴史を持ちます。

すなわち、風宮の名前の由来とは大自然が起こす風からきていますが、他に下記のような神風伝説も名前の由来となってい‥‥‥申す。あひょっ




伊勢神宮・風宮の3つの「神風伝説」

伊勢神宮・外宮(別宮)「風宮(かぜのみや)」

【その1】中国・元寇の神風伝説

風宮に伝わる有名な話として、鎌倉時代中期にアジア大陸を支配していたモンゴル帝国と高句麗(韓国)から2度にわたり行われた日本侵略「元寇(げんこう)」の際に、2度とも神風を吹かせて船団の多くを沈没させたという話が伝わっています。

この功績から、後に風宮は内宮の風日祈宮と共に日本国を救済した神として威厳と神格を高め、社格が「別宮」へ昇格しています。

この話は1268年(文永5年)にモンゴル帝国の皇帝「フビライ」が九州の太宰府に使者を送ってきたのが事の始まりで、友好を結ぶ内容の書状だったようですが、書状の最後の一文に「我は出兵は好まない」と書かれていたことが発端です。

その後、幾度か使者を送ってきたようですが、1269年(文永6年)に使者が訪れた時にようやく使者に対して日本の意を伝える書状を持たせて返しています。

その内容はこうです。

「日本という国は天照大御神に守護され、その子孫である天皇が代々治める国である。全土に天皇の徳が及んでいる神の国である。」

この文章がフビライに届けられることはなかったようですが、仏教まっさかりであった鎌倉時代の日本にも天照大神への信仰が根付ていたことになります。

この後、拒み続けたことで業を煮やしたフビライは1274年(文永11年)、ついにおよそ3万もの軍勢を日本へ差し向けて博多を襲撃させます。

しかし夜襲を警戒したのか、夜になれば船へ引き上げたそうで、そのときにちょうど暴風雨が吹いて船がすべて沈没したという話です。これが1回目の襲撃です。

2回目はそれから7年後の1281年(弘安4年)の時です。この時は14万というケタ外れの大軍を擁し再び博多を襲撃します。

鎌倉幕府は日本の武士をすべてを結集させ、その日本の武士たちの勇ましい戦いにより善戦し、上陸を許さなかったようです。

しかししばらく経ったある日のこと、今度は台風がやってきてフビライ艦隊は海の藻屑を消え失せ、命からがら残った船だけで撤退することになります。

この二度にも及んだ大風は、当時の人々を勇気づけ歓喜に湧き立ち、「日本は本当に大神に守られている神の国だ」とう認識がいっそう広まることとなり、以後、「神風」と呼ばれるようになります。

ただ、2回目の弘安の役の際、実は朝廷は日本国の勝利を願って大納言「二条為氏」を遣わし、この時、風社にも参拝したようです。

その結果、見事に日本は勝利を収めたものだから、朝廷内も歓喜に沸き立ち、風社から→風日祈宮と名前を改めて神社としての格を「別宮」へと昇格させることになります。

ただ、この際に昇格した神社は、外宮の風宮、内宮の風日祈宮だけではなく、西日本の日本海側に面していた博多湾にほど近い、風の神をお祀りした神社などは、ほとんどが昇格しています。

【その2】伊勢津彦の神風伝説

上記の神風には実は「神風」の言葉の語源ともなった出来事が存在します。

その出来事とは、まだ伊勢神宮が創建される前の神話の時代、かつて伊勢国は「伊勢津彦(いせつひこ)」という神が治めていましたが、やがて後に伊勢国造(いせのくにみやつこ)となる天日別命(あめのわけのみこと)という神が伊勢国を統治することになります。

伊勢津彦は伊勢を去る際、御身を太陽のごとく光り輝かせながら、伊勢湾や日本海の海面に高波が立つほどの強風を巻き起こして東へ向かって去っていきます。

この出来事からしばらくした後に倭姫命が伊勢の地に到着した時、ほどよく弱まった心地よき風と、波の威勢が大変、美しく見えたことから、天照大御神が「神風が吹く国・伊勢。まるで常世の波のように美しい。わたしはこの美しい伊勢国に鎮まりたい」と告げ、今日にみる内宮が創建されることになります。

【その3】「大海人皇子(天武天皇)」の神風伝説

天武天皇元年(672年頃)頃、天智天皇の息子である大友皇子と大海人皇子(天武天皇)が起こした壬申の乱(じんしんのらん)の最中、突如、大友皇子の陣に強風が吹いて、大海人皇子が勝利したという神風伝説が残されています。

この神風が吹いた後、大友皇子の軍勢は狼狽し、これが大海人皇子の勝利につながったことから、後に歌人・柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が天武天皇(大海人皇子)の息子「高市皇子(たけちのみこ)」が崩御された際、このような歌を詠んでいます。

「伊勢神宮から突如、吹いた神風が相手を大いに惑わした。この神風はさらに天雲(雷雲)をも呼び寄せ、相手を大いに盲目にした」

と。

尚、この天武天皇とは現在まで続く、伊勢神宮の大祭「式年遷宮(しきねんせんぐう)」を初めて挙行し、以降、例祭と定めた人物です。

風宮の御祭神「級長津彦命」「級長戸辺命」について

「風宮(かぜのみや)」は、伊勢神宮・外宮(別宮)に属する、お宮であり、御祭神は以下のお二人の神様です。

  • 風の神「級長津彦命(しなつひこのみこと)
  • 風の神「級長戸辺命(しなとべのみこと)

をお祀りしています。

この2柱の神様は、内宮・別宮の「風日祈宮(かざひのみや)」でお祀りしている神様と同じ神様となります。

両神様は、伊弉諾尊(イザナギのみこと)の御子神とされており、日本書紀においては、伊奘諾尊が立ち込める「朝霧」に自らの息を吹きかけて、霧を吹き払った時に生まれたとされています。

また、別名を「志那都比古神」とも発し、「速秋津日子神(はやあきつひこの)」と「速秋津比売神(はやあきつひめの)」の御子神とも云われております。

なお、「級長津彦命」に関しては、伊奘諾尊の御妻神である「伊邪那美命(イザナミのみこと)」が生んだ御子神とされています。

しかし、現在までの通説では、このお二人の神様は同一の神様であるとされています。

風宮」の歴史

「風宮」は、外宮別宮で、御正宮の近くの「御池」にかかった「亀石」を渡って南側にあります。

この風宮は平安時代、「風社(かぜのやしろ)」と呼称されていました。

農業と関わりが深く、雨と風を司る神様であり、古来、稲などの農作物が無事に生育するようにとの祈りが捧げられてきた歴史を持ちます。

ちなみにこのような風社は外宮のみならず内宮の境内にも存在し、つまりは伊勢神宮の内宮・外宮の宮域にそれぞれ1つずつ存在したことになります。

また、両宮の風社とも過去では「末社(まっしゃ)」か、それ以下の社格であったといいます。

しかし、上述の蒙古襲来(元寇)の「文永の役(1274年)」・「弘安の役(1281年)」に2度も大風を吹かせて、蒙古軍(モンゴル帝国・高句麗連合軍)を追い払ったとして、1293年(正応6年)に、天皇の勅命によって社格が「別宮」へと格上げされています。

伊勢神宮・風宮の「守り神伝説」

昭和34年(1959年)の伊勢湾台風の時には、「風宮」にある大木が倒れて、屋根が壊れたそうです。

神宮の他の場所では被害がなかったため、当時の人々は「風宮」が自ら被害を引き受けて、神宮を守ったのだと語り合ったとの逸話が残っています。

外宮(別宮)の「風宮」と、内宮(別宮)の「風日祈宮」の違い

「風宮」と「風日祈宮」の違いとは、単純に名前に違いだけのように思われます。

両宮とも、「風日祈祭(かざひのみさい)」という、祭事が執り行われております。

また、御祭神も同じですので大きな違いはありません。

ただ、社殿の造りに関していえば、鰹木(勝男木)の本数が奇数か偶数かの違いはあります。

これは、両宮の正宮の御正殿の鰹木の本数に由来するものだと思われます。

伊勢神宮・風日祈祭(かざひのみさい)について

このお祭りは、7月1日から8月の末日まで執り行われる神宮の中でも重要な御祭事です。

この間、約2ヶ月近くありますが、毎日、ご祈祷が捧げられます。

昔の日本は、水と風に逆らって生きてはいけませんでした。

つまり、水と風は作物の育成を促すには、重要な要素であったからです。

そこで風の神にお祈りを捧げて、災害がなく秋のお米の収穫時期には豊作になって、再び、1年が無事に過ごせるようにとご祈祷を捧げました。

この風日祈祭が他の神事と少し異なる点は、奉納する物として「御幣(ごへい)」「御蓑(みみの)」「御笠(みかさ)」をお捧げするところです。

「御蓑」、「御笠」を捧げる理由は、雨と風を適度に授かることができるようにとの意味合いが込められています。

尚、鎌倉時代では別名で「御笠の神事」とも呼称されていたようです。




 伊勢神宮・外宮(別宮)「風宮」 付近の不思議なパワースポット!「3つの石」

「三ツ石」

伊勢神宮パワースポット「三ツ石」

1498年の大地震の際、地形が変わる程の大きな被害を受けた場所です。

ここは、式年遷宮の時には祭主や奉仕員を祓い清める場所(川原祓所/かわはらのはらいしょ)になります。

「三ツ石」の詳細については以下の別ページにてご紹介しています。

 関連記事:伊勢神宮(-JINGU-)◆ 川原祓所(KAWARA-NO-HARISHO)

「亀石」

伊勢神宮パワースポット亀石

御池の中堤にかかる大きな石の橋です。

亀の姿に似ています。高倉山古墳の入口にあった岩とも言われています。

「地蔵石」

伊勢神宮パワースポット地蔵石

多賀宮の前の参道に、ひとつだけ飛び出た石があります。お地蔵さんに見えることから地蔵石と呼ばれています。

外宮のオススメ参拝ルート

※注釈※

伊勢神宮の正しい参拝のコースは外宮⇒内宮が基本で、他には特に無いとされていますが、外宮の境内においては、『「御正宮」→「多賀宮」→「土宮」→「風宮」』と、いう参拝が良しとされているようです。

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