伊勢神宮(-JINGU-)◆津長神社・新川神社・石井神社(TSUNAGA-JINJA)

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伊勢神宮(-JINGU-)◆津長神社・新川神社・石井神社(TSUNAGA-JINJA)

⬆️正面からのアングル⬆️左斜め20度のアングル

創建年

  • 不明
  • 推定:垂仁天皇26年
建築様式(造り)

  • 切妻造
  • 平入

※神明造り

屋根の造り

  • 板葺き
御祭神

  • 栖長比賣命(すながひめのみこと)
  • 新川比賣命(あらかわひめのみこと)
  • 高水上命(たかみなかみのみこと)
社格

  • 津長神社※伊勢神宮・内宮(皇大神宮)「摂社」
  • 新川神社※伊勢神宮・内宮(皇大神宮)「末社」
  • 石井神社※伊勢神宮・内宮(皇大神宮)「末社」
主な神事

  • 神嘗祭(10月22日)

津長神社の読み方

津長神社は「つながじんじゃ」と読みます。

津長神社の別名

津長神社は別名で「津長大水神社(つながおおみずじんじゃ)」とも呼ばれます。かつては「津長社」と呼ばれていたようです。




新川神社の読み方

新川神社は「にいかわじんじゃ」と読みます。

石井神社の読み方

石井神社は「いわいじんじゃ」と読みます。

津長神社の歴史・由来

津長神社の創建年

津長神社の確かな創建年は不詳とされていますが、倭姫命世記の記述に依れば、伊勢神宮内宮と同年代となる垂仁天皇26年とされています。

社格は、内宮(皇大神宮)の摂社27社のうち第14位の社格を有します。

皇大神宮儀式帳の記述によれば、津長神社は創建以降、広大な社地を誇り、その広さも優に約3haはあったと伝えています。この大きさを例えると甲子園球場くらいの野球の球場1つ分くらいに相当する大きさになります。

この頃の鎮座地は五十鈴川の川辺にあったとされ、祭場まで設けられていたようです。また、当初、「延喜式神名帳」の記述によれば社名を「津長大水神社」と言い、鎮座地は「津長原」と呼ばれ、付近に五十鈴川をのぼってきた川舟の船着場まであったようです。

その上、この津長神社の祭場まで橋が架橋され、これが宇治橋の前身であると伝えられています。一説には津長神社の祭場では神宮における重要な儀式が執り行われたと云われており、このために橋が架橋されたと考えられています。ただし、この当時の橋は現在の宇治橋のような立派な橋ではなく、幅が狭い上に背の低い、簡素で質素な橋だったようです。

平安時代〜鎌倉時代

理由は定かではありませんが、上記の儀式が平安後期〜鎌倉時代中期のあたりで廃絶しています。

その後、1663年(寛文3年)12月21日に当時の伊勢神宮・大宮司であった河辺精長の提案により、遷御(せんぎょ)の儀が、当地にて再び斎行され、以来、儀式が復興されています。

明治時代

1879年(明治12年)に編纂された「伊勢国度会郡 神社明細帳」の記述によれば、1871年(明治4年)に別の場所に鎮座していた新川神社・石井神社の両神社が津長神社と合祀される形になり、現今に見られる3柱同座のスタイルが誕生したとされています。

大正時代

1916年(大正5年)に社殿の造替が執り行われています。

昭和時代

1956年(昭和31年)3月に社殿の造替が執り行われています。次いで、1977年(昭和52年)に大修繕がなされています。

新川神社の歴史・由来

新川神社の創建年は定かではありません。また創建当初の鎮座地についても明らかにされていません。

ただし、上述、津長神社付近に存在した船着場を守護する神であったと伝えられています。故に御祭神の新川比賣命(にいかわひめのみこと)水神だったようです。

一説には倭姫命が降り立った場所が、後に神聖視されて船着場に定められ、その付近で神事が執り行われることになったとも。

時代を下る過程において、社地も変わったようですが、1871年(明治4年)に津長神社と石井神社とで合祀される形になり、現今に見られる3柱同座のスタイルが誕生しています。

ちなみに新川神社の社格は内宮の末社16社のうち第6位になります。

石井神社の歴史・由来

石井神社の創建年は定かではありません。また創建当初の鎮座地についても明らかにされていませんが、江戸時代には「巖社(いわおのやしろ)」と呼ばれていたようです。

この巖社は江戸時代となる1861年(文久元年)には「岩井神社」と呼ばれており、その跡地と推定される場所が、伊勢古地図研究会が1997年に出版した伊勢古地図・宇治郷之図に掲載されています。

その岩井神社の跡地(旧跡)となるのが、現在の「宇治館町字岩井田山」であり、付近には式年遷宮の山口祭が執り行われる祭場があります。

石井神社の創建は不詳とされていますが、皇大神宮儀式帳にも記述によれば、倭姫命が当神社を岩井田山に創建したと伝えています。

巖社(岩井神社)の遥拝所

この巖社には、内宮の一の鳥居を少し過ぎたあたりに遥拝所が設けられいたとされており、石畳を御神体として祀られていたようです。

かつて、その遥拝所は「一ノ宮(いちのみや)」とも呼ばれていた時代があったようですが、現在はありません。

上記2社同様に、1871年(明治4年)に津長神社と新川神社とで合祀される形になり、現今に見られる3柱同座のスタイルが誕生しています。

ちなみに石井神社の社格は内宮の末社16社のうち第6位になります。

新川神社の御朱印の種類・初穂料(値段)

残念ながら新川神社では御朱印の授与をしていません。

石井神社の御朱印の種類・初穂料(値段)

残念ながら石井神社では御朱印の授与をしていません。

津長神社の御朱印の種類・初穂料(値段)

残念ながら津長神社では御朱印の授与をしていません。

以上、3社では御朱印の授与はありませんが、伊勢神宮では御朱印を授与されています。伊勢神宮の御朱印についての詳細は下記ページをご参照ください。

 




3社のすぐ近くで御朱印を授与されている神社

実はこの饗土橋姫神社のすぐ隣りには、宇治神社‥通称「足神さん」と呼ばれる神社があります。徒歩約3分くらいの距離です。

⬆️3社と足神さんの位置関係図

この足神さんでは御朱印を授与されています。ただし、神主さんが常に授与所におられるワケではありませんので、ご注意ください。万が一、留守の場合は書き置きタイプの御朱印になりますが、郵送にて授与していただくこともできます。

宇治神社(足神さん)についての詳細は下記ページをご参照ください。ウフ

津長神社の御祭神「栖長比賣命」

栖長比賣命は「すながひめのみこと」と読みます。上述した通り、倭姫命が伊勢神宮を創建する際に降り立ったとされる五十鈴川の船着き場を守護する神とされています。

すなわち水の神です。

大水上命(おおみなかみのみこと)の御子神とされています。

なお、内宮の末社「那自賣神社(なじめじんじゃ)」では、この大水上命の御霊とされる御裳乃須蘇比賣命(みものすそひめのみこと)を祀っています。

御裳乃須蘇比賣命とは、五十鈴川の神になります。

新川神社の御祭神「新川比賣命」

新川比賣命は「にいかわひめのみこと」と読みます。

上記、栖長比賣命と同様に川の神になり、船着き場の守護神になります。

栖長比賣命と同様に大水上命御子神とされています。

石井神社の御祭神「高水上命」

高水上命は「たかみなかみのみこと」と読みます。

この神様は石清水を守護する神様です。岩清水とは、岩の間から流れでる透明な澄み切った水のことです。岩清水を守護する神ということで鎮座地が岩に囲まれた場所であったことが想像につきます。

栖長比賣命・新川比賣命と同様に大水上命御子神とされています。

なお、内宮の末社「宇治乃奴鬼神社(うじのぬきじんじゃ)」では、この高水上命を祀っています。

津長神社・新川神社・石井神社の例祭

当神社では例年、巡回形式で神事が執り行われています。

以下の神事においては当神社の社殿前で斎行されています。

祈年祭(2月)、月次祭(6月)、神嘗祭(10月)、新嘗祭(11月)、月次祭(12月)

以下の神事は離れた場所(内宮宮域)にて遥祀にて執り行われています。

歳旦祭(1月)、元始祭(1月)、建国記念祭(2月11日)、風日祈祭(5月)、風日祈祭(8月)、天長祭(12月23日)

伊勢神宮・内宮「津長神社・新川神社・石井神社」の場所(地図)

津長神社は、宇治橋とほぼ正対する形で真正面の方向に位置します。宇治橋前から徒歩約2分の距離です。すぐ隣には饗土橋姫神社(あえどばしじんじゃ)が鎮座しています。キラん⭐︎




宇治橋から津長神社・新川神社・石井神社への行き方

宇治橋の鳥居をくぐり抜けて→宇治橋の脇にある衛士見張所の前を通り過ぎて→その向こうに見える道路を進みます。

やがて横断歩道が見えますので、横断歩道を渡って右へ進みます。→すると内宮A駐車場とその奥にタクシー乗り場が見えます。このタクシーのりばの奥の森林の中に饗土橋姫神社がありますので、駐車場へ入って奥に向かって歩いていきます。

初めてお伊勢参りされた方であれば、少し迷うかもしれませんので、宇治橋脇の「衛士見張所」には「参宮案内所」が併設されていますので、こちらでお尋ねになってみてください。

⬆️津長神社手前の参道(山道)の様子

⬆️饗土橋姫神社の手前から撮った写真

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