【ミキモト真珠島とは?】ミキモト真珠島の歴史(年表)一覧

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ミキモト真珠島とは?

ミキモト真珠島(しんじゅしま)は、1893年(明治26年)に、世界で初めて真珠の養殖が始まった場所として知られています。

もともとは相島(おじま)という名前の島でしたが、養殖真珠の生みの親で「真珠王」とも呼ばれる御木本幸吉(みきもとこうきち)の名前にちなみ、「ミキモト真珠島」と名称が変更されています。

現在は真珠博物館や土産物店、飲食店があり、海女さんの実演を見学できるなど、島全体が「株式会社御木本真珠島」が運営する真珠のテーマパークとなっており、例年19万人前後の観光客が訪れています。




ミキモト真珠島の歴史(年表)

1893年(明治26年)

相島にて、御木本幸吉が真珠の養殖に成功する

1929年(昭和4年)

鳥羽市が御木本幸吉に相島を売却する

1951年(昭和26年)

有限会社「御木本真珠ヶ島」が設立され、レジャー施設としての「御木本真珠ヶ島」がオープンする

この頃からミキモト真珠島は、ただの観光施設ではなく、真珠の養殖場と工場を一か所に集めて展示し、真珠について知ってもらう教育的な場所として整備されていました。

海女が海に潜って貝や海藻などを採る様子や真珠養殖の方法の解説、真珠のえり分け、アクセサリーに加工する様子などが紹介されていたようです。

本来は別々の場所にある養殖場や工場を一体にして産業観光の施設にするというのは、当時としては斬新な試みでした。

1953年(昭和28年)

御木本幸吉像を建立する

1958年(昭和33年)

御木本幸吉翁記念館が開館する

1962年(昭和37年)

ミキモトパールミュージアムが開館する

1970年(昭和45年)

パールブリッジが完成する

1971年(昭和46年)

商号を「有限会社御木本真珠島」に、島名を「ミキモト真珠島」に変更する

1980年(昭和55年)

「株式会社御木本真珠島」へ組織変更する

1985年(昭和60年)

真珠博物館が開館する

1993年(平成5年)

御木本幸吉記念館が開館する

島の外から見た御木本幸吉記念館




御木本幸吉の生涯

御木本幸吉は、鳥羽のうどん屋「阿波幸(あわこう)」の長男として誕生しました。

若い時に様々な商売を経験しながら、志摩の名産だった真珠の魅力に着目し、真珠貝の増殖や真珠そのものの養殖を試み、試行錯誤をしながら、「自分の作った真珠で世界中の女性を美しく飾る」という夢のために前進を続けました。

既にご紹介した通り、御木本幸吉は現在のミキモト真珠島で、世界初となる真珠の養殖に成功し、「真珠王」の異名を持ちます。

以下では、そんな真珠王・御木本幸吉の生い立ちや経歴、御木本真珠店の出店の歩みなどをご紹介します。

1858年(安政5年)

志摩国鳥羽町大里に父音吉・母もとの長男として誕生する(幼名:吉松)

1871年(明治4年)・13歳

  • 青物行商を始める

幸吉の実家はうどん屋でしたが、幸吉は家業を手伝いながら、13歳のころから青物の行商を始め、後に米穀商に転身し、20歳頃からは天然真珠やアワビ、ナマコなどの仲買も行いました。

当時の真珠は、数千個のアコヤ貝に1個程度しかできない、天然の恵でした。

偶然できる貴重なものだったため、1粒で、現在の価値にして数十万円するものもあったと言います。

1875年(明治8年)・17歳

イギリス測量船シルバー号来航。足芸を演じ、鶏卵・青物を売り込む。

来航したイギリス船の乗組員相手に商売をしようと、以前、鳥羽を訪れた狂言師に習った足芸を披露し、気に入られて、見事商品を売り込むことに成功したと言います。

※足芸:仰向けに寝て足の上で蛇の目傘を回す芸

1878年(明治11年) ・20歳

家督相続により御木本幸吉と改名する

東京・横浜視察旅行に出発する

1881年(明治14年) ・23歳

鳥羽藩士・久米森造の長女うめ(17歳)と結婚する

1888年(明治21年) ・30歳

東京での品評会に真珠を出品する

神明浦(志摩市)で真珠貝の培養を試す

明治時代、日本では一部の特権階級の女性が、洋装に宝石を身に付けるファッションを始めていました。

真珠を手に取り、目を輝かせる女性たちを見た幸吉は、真珠を量産できればよい商売になると考えます。

また、それ以上に、「特権階級の女性だけでなく、一般の女性たちにも美しい真珠を提供して笑顔にしたい」という夢も膨らんでいました。

商売人としてのセンスに加え、繊細な乙女心を理解する気持ちが、真珠の養殖への原動力となったのです。

そこで私財を投じて真珠の養殖の研究を始めましたが、借金を返せずに裁判寸前になるほど生活は困窮しました。

手塩にかけて育てた貝が、赤潮でほぼ全滅したこともありました。
そんな幸吉を、妻のうめは献身的に支えます。

主の代わりにうどん屋を切り盛りし、時にはお金の工面もしたりして、真珠の養殖研究に協力したということです。

1890年(明治23年) ・32歳

  • 箕作佳吉博士に面会し、真珠ができる仕組みや養殖法の説明を受ける

箕作佳吉(みつくりかきち)は欧米で動物学を学んだ学者で、東京帝大で日本人初の動物学の教授となった人物で、特に海産動物の研究に尽力しました。

この年、幸吉に「誰も成功してはいないが、真珠の養殖は学理的には可能である」と助言し、幸吉の夢を後押ししました。

他に、牡蠣の養殖などにも寄与しました。




1893年(明治26年) ・35歳

  • 相島(現ミキモト真珠島)で半円真珠を完成させる
半円真珠

 1983年7月11日に幸吉と妻うめが世界で初めて半円真珠の養殖を成功させたことにちなみ、7月11日は「真珠記念日」とされています。

1896年(明治29年) ・38歳

箕作博士の援助で半円真珠特許権を得る

妻うめが死去する

この時点でできたのは半円の真珠でしたが、量産に成功したことで、幸吉はうどん屋をたたみ、本格的に真珠産業に力を入れていきます。

このころには、真珠そのものだけでなく、装飾品の製造も手掛けるようになりました。

当時は和装の女性が多かったため、着物に合うように帯留めなどから作り始めます。

次に、いずれ日本の女性たちにも洋装が浸透することを見越して、ネックレスの製造を志しますが、それには球体の「真円真珠」が必要であるため、今度は真円真珠の養殖を成功させなければいけません

若くして良き理解者だった妻を亡くした悲しみもばねに、幸吉は、より一層真珠作りに打ち込んでいくことになります。

1899年(明治32年) ・41歳

東京銀座裏の与左衛門町に「御木本真珠店」を開業する

1901年(明治34年)・43歳

「御木本真珠店」を銀座の元数寄屋町に移転する

1903年(明治36年)・45歳

銀座四丁目に店舗を構える

 銀座4丁目には、現在、「ミキモト」の本店があります。

1905年(明治38年) ・47歳

明治天皇に謁見する

真円真珠の養殖に成功する

幸吉の研究はまだ道半ばでしたが、それまでの真珠養殖の功績が認められ、明治天皇に拝謁する機会を得ました。

明治天皇はこの年、日露戦争の勝利奉告のために伊勢神宮を訪れたのです。

そこで幸吉が、「真円真珠の養殖を必ず成功させ、世界中の女性の首を真珠でしめて(飾って)ご覧に入れます」と豪語したという話は有名です。

現人神とされていた天皇の目の前で見せたこの態度は、自分の事業が国に認められてここにいるのだという、幸吉の自信と誇りの表れでした。

それに加えて、養殖真珠を宣伝しようというビジネスマンの強引さやしたたかさの表れでもあったのかもしれません。

1910年(明治43年) ・52歳

日英博覧会に「軍配扇」を出品する

1916年(大正5年)・58歳

中国視察に出かけ、上海支店を開設する

1917年(大正6年)・59歳

多徳島の真珠養殖場に飛行機の滑走路を造り、「アート・スミス」を飛行させるイベントを開催する

飛行機好きたっだ幸吉は、庭先で飛行機を飛ばすと言って養殖場に突貫工事で滑走路を造り、飛行ショーを行いました。

飛行機を一目見るために、なんと2万人もの見物人が集まったといいます。




1918年(大正7年):60歳

  • 大きな真円真珠の生産に成功する

明治天皇に謁見した頃には、直径3mm程度の真円真珠を作ることには成功していましたが、その時点では偶然できたに過ぎませんでした。

また、幸吉が目指していたのは、直径5mmを超えるサイズの真珠の大量生産だったので、まだまだ研究が必要でした。

結果的に、真円真珠ができる仕組みを発見し、養殖方法を確立するまでには、10年近い年月が費やされることになりました。

1919年(大正8年) ・61歳

  • 真円養殖真珠をロンドン市場に初めて出す
1924年(大正13年) ・66歳

  • パリ真珠裁判が決着する

ロンドンやパリに持ち込まれた幸吉の養殖真珠は好評を博しました。
しかし、天然真珠を商売道具としていた宝石商らからの反発が強く、「偽真珠」「模造品」などとバッシングされ、新聞もそれを大々的に報道しました。

天然真珠を持っていた特権階級の女性たちが、自分の真珠が「本物」かどうかを確かめるため、病院に持ち込んでX線検査を依頼するという騒動も起き、販売店はあからさまな営業妨害にも悩まされました。
そこで幸吉は、パリで宝石商らを相手に、養殖真珠が「偽物」ではないことを証明するため、裁判を起こします。

結果は、生物学者による「天然真珠と養殖真珠で色や光沢に違いはない」「真珠ができる過程が異なるだけである」という分析もあり、無事に勝訴しました。

ここで初めて、世界の宝石界に日本の養殖真珠を認めさせ、そのブランドを確立するところまで到達したのです。

1926年(大正15年) ・68歳

  • 欧米視察へ出発する
  • フィラデルフィア博覧会に真珠製品と「五重の塔」を出品する

旅の目的の1つであるフィラデルフィア万国博覧会の見学に際しては、「1つの懸念事項があった」といいます。それは、「ネクタイ」です。

幸吉は普段、和装に帽子といういで立ちを好んでいたので、洋服を着る機会はあまりなく、ネクタイをうまく結ぶ自信がないと心配していたようなのです。

この時は、たまたま知人が2人渡米することを知り、御木本真珠店のニューヨーク支店長に引き継ぐまでの間は、その2人にネクタイを結んでもらうように依頼して、ようやく出発する決心が固まったという話が伝わっています。

明治天皇に謁見する時も木綿の羽織袴に帽子というスタイルで通した幸吉の、意外な一面が垣間見えるエピソードです。

1927年(昭和2年) ・69歳

  • ウェストオレンジでトーマス・エジソン(当時80歳)と会見する
  • ニューヨーク支店を開設する
  • 発明界に貢献したとして、勲四等瑞宝章が贈られる

1926年から翌年にかけての10か月に及ぶ欧米視察は、横浜港を出発し、アメリカ、ヨーロッパをめぐってインド洋を通り、神戸港に寄港するという世界一周の旅で、真珠養殖の調査や視察以外にも、ポンペイ遺跡やピラミッドの見学も楽しみました。
その最中、幸吉は、渋沢栄一からの招待状を持って、エジソンの自宅を訪ねます。
世界の発明王・エジソンは、幸吉にとってあこがれの存在だったのです。

トーマス・エジソン

そこでエジソンは、
私は色々発明したが、できなかったものが2つある。1つはダイヤモンド、もう1つは真珠だ。
あなたが動物学上不可能とされていた真珠を発明・完成させたことは、まさに世界の驚異だ。
と言ったそうです。
この2人の会見はニューヨークタイムズにも取り上げられ、「ミキモト・パール」の名はアメリカの津々浦々に知れ渡ることになりました。

1928年(昭和3年)・70歳

  • ロンドンのリーゼント街に支店を開設する
1929年(昭和4年)・71歳

  • パリ支店を開設する
1930年(昭和5年)・72歳

  • 鈴木梅太郎、本多光太郎らと共に十大発明家に選ばれ、天皇から賜餐(しさん/食事会)に招かれる
1931年(昭和6年)・73歳

  • ロサンゼルス支店を開設する




1933年(昭和8年) ・75歳

  • シカゴ博覧会に「ワシントンの生家」を出品する
  • シカゴ支店を開設する
1934年(昭和9年)・76歳

  • 日本養殖真珠水産組合長になる
1937年(昭和12年)・79歳

  • パリ博覧会に「矢車」を出品する
部品を専用のドライバーで組み立てると12通りの使い方ができる多機能アクセサリー「矢車」
1939年(昭和14年) ・81歳

  • ニューヨーク博覧会に「自由の鐘」を出品する

1940年(昭和15年) ・82歳

  • 「奢侈品(しゃしひん)等製造販売制限規則」が施行され、真珠養殖事業は禁止になり、各養殖場は閉鎖及び縮小に追い込まれる

戦中、奢侈品(ぜいたく品)の取り締まりが厳しくなり、真珠の養殖事業を続けられなくなった時も、幸吉は夢を諦めませんでした。

養殖工場を軍事工場に転用することを頑なにこばみ、養殖した界を食用にするなどして、細々と営業を続けました。

幸吉には、「女性が着飾れない時代は長く続くべきではない」という信念があったのです。

そして、戦争が終わると、直ちに真珠の養殖を再開しました。

すでに真珠王として知られていた幸吉の養殖場には、進駐していた米兵も見学に訪れました。

一時は1か月に平均3000人もの米兵が押し寄せたと言います。

1941年(昭和16年)

  • 貞明皇后(ていめいこうごう)から杖を賜る

 貞明皇后:大正天皇の皇后

1947年(昭和22年) ・89歳

  • 国定教科書に載る
1951年(昭和26年)・93歳

  • 昭和天皇が多徳養殖場に行幸した際、見学のお供をする
1954年(昭和29年) ・96歳

  • 死去、正四位勳一等に叙せられる

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