伊勢神宮(-JINGU-)◆ 月夜見宮(TSUKIYOMI-NO-MIYA)

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伊勢神宮(-JINGU-)◆ 月夜見宮(TSUKIYOMI-NO-MIYA)

創建年

不明

  • 推定456年(安康天皇3年)〜479年(雄略天皇23年)以前※古墳時代
建築様式(造り)

  • 切妻造り
  • 平入
  • 掘立柱

※神明造り

屋根の造り

  • 茅葺き(萱葺)
鰹木の数

  • 5本
千木の形

  • 鋭鋒型(外削ぎ)
素材

  • 檜(ヒノキ)
大きさ(正殿)

  • 棟持柱の高さ(地面から棟まで):不明
  • 梁間:不明
  • 桁行:不明
鳥居の形式(境内)

  • 神明鳥居(伊勢鳥居)
御祭神

  • 月夜見尊
  • 月夜見尊荒御魂
社格

  • 伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)「別宮」
境内社

  • 高河原神社(外宮・摂社)




月夜見宮の読み方

月夜見宮「つきよみのみや」と読みます。

内宮にも「月読宮(つきよみのみや)」と呼ばれる、読み方が一緒で漢字だけ異なる御社殿がありますが、これはまったく別の社になります。

月夜見宮の名前の由来・意味

黄泉の国の主宰者

「月夜見」というのは、「黄泉(よみ)」を「夜見」とも書くことからこれは月夜見尊が黄泉の国の主宰神であることを示したものだと推察することができます。

「月」を神格化した言葉

なお、月読尊を祀る「月読神社」の解釈によれば「月夜」とは単に「月が出た夜のこと」を意味し「見」は「心霊」を表すとのこと。まとめると月夜見とは「月を神格化した言葉」とのこと。

「夜」を神格化した言葉

実は元来、1日の始まりは「夜」とされていました。神宮での祭礼も午後10時や午前2時などに執り行われるのが多いのは、この名残と言えます。

その夜に出てくる月を神聖視し、それを包括する夜を神格化した言葉だとも考えられます。

まさに「夜之食国(よるのおすくに)」の主宰者であるが所以です。

月夜見宮の境内(宮域)の案内地図

「月夜見宮」の境内は生垣と杜(森林)で囲まれており、その中央にお宮が建っていますので外からは見えません。

境内(宮域)に入ると分かりますが、伊勢市街の喧騒がウソのように感じられます。

入口の鳥居をくぐっても前方すぐに石垣と生垣で遮られ、御本殿が見えなくなくなっています。

こうまでして御本殿を隠すのは、やはりそれほど御祭神が尊い存在であり、古来、伊勢の人々の崇敬を集めている証拠ともいえます。

月夜見宮の参拝可能時間(開門・閉門時間)

月夜見宮の参拝時間は神宮に準じたものです。すなわち内宮・外宮とも同じです。

10月・11月・12月

午前5時~午後17時

1月・2月・3月・4月・9月

午前5時~午後18時

5月・6月・7月・8月

午前5時~午後19時

月夜見宮の所要時間(滞在時間)

所要時間は人により様々ですが、平均的な所要時間(滞在時間)をご紹介しておきます。

  • 御朱印orお守り授与:約5分(混雑していないとして)
  • 境内参拝&移動:約20分

合計所要時間:約30分

月夜見宮の隣の空き地と空き地中央の小屋の正体

月夜見宮の御社殿の隣には空き地があり、その空き地の中央にはお地蔵さんが収められていそうな小さな覆屋(おおいや)があります。

⬆️空き地に摩訶不思議な小屋が見える

この空き地の正体は次の遷宮でお宮が築かれる場所です。すなわち「新御敷地(しんみしきち)」もしくは「古殿地(こでんち)」と呼ばれるものです。

覆屋の中には心御柱(しんのみはしら)と呼ばれる柱が埋まっていると云われており、これは次回の遷宮のときに御神体の位置を分かるようしている目印だとも云われます。

なお、このような光景は内宮・外宮双方の御正宮でも見ることができます。




やはり「月夜見宮」にもあった!!超・パワースポットが!!

月夜見宮の境内(宮域)の右側には「楠木の巨木(御神木)」が自生しており、この御神木こそ伊勢神宮のパワースポットの1つであると噂されているようです。

「月夜見宮」の御神木

やはり「月夜見宮」にもあった!!パワースポットが!!

楠の巨木(御神木)大きさ

  • 高さ:約20m
  • 幹の周囲の長さ:約8m
樹齢

  • 推定400年〜500年
御神木からパワーをいただく方法

この御神木に、手を合わせて祈る人の姿も見られますが、ソッと木に触れてみてください。

そして、身体の体幹を意識して、体幹に御神木からのパワーを浸透させるイメージをもって、木に宿るパワーを体内の芯(体幹)に宿らせます。

つまり、御神木が蓄積してきた何百年ものエネルギー(パワー)を少し分けていただきます。(神宮では樹木に触れることを禁止している区域もある)

月夜見宮の境内にある「稲荷神社?」

実は、月夜見宮の境内にはもう1つ神社らしき場所が存在し、御神木の前に木製の鳥居が立ち、キツネ像(お稲荷さん?)が祀られた場所があります。

少し分かりにくいのですが、月夜見宮の殿舎を正面に見て左側を見ると脇道が見えます。この脇道は杜(森林)の奥に続いており、先に進めるようになっています。

⬆️森林の奥に続いている

少し先に進むと↓の写真のような鳥居とその後方に幹が痛々しく焼けたように削れた大木(御神木)が出現します。

さらによく見ると大木の下に、白狐の像が2つ並んでお祀りされているのが分かります。すなわち、これはお稲荷さんでしょうか。

これは地元の方がお祀りしたようで名前も特にないようです。

伊勢市に伝わる「伊勢市史」によると・・

第二次世界大戦の最中、日本軍は相次ぐ敗北によって世界での勢力圏が失われ、ついに米軍に日本本土侵攻を許し、1945年(昭和20年)、米軍の最新鋭戦闘爆撃機 B-29による空襲が開始された。
の空襲は、ここ伊勢の地まで及び、伊勢宇治山田空襲において「焼夷弾」が投下された。

・・との記述があり、その時、ここ月夜見宮の楠にも着弾し、楠に被害が及んだそうです。しかしこの楠がすべて引き受けてくれたおかげで、地元の人々は一命を取り留めたそうです。

この楠が焼けたように削れているのはこのような理由があったからです。

⬆️一部が焼けただれて炭になっているのが分かる。この楠は戦争の悲惨さを訴えたような「平和のシンボル」とも言える

以降、現在に至るまで楠への感謝の意を込めて、この楠をお祀りしているそうです。

月夜見宮の御朱印の種類と値段について

すでにご存知の方も、おられると思いますが、この「月夜見宮」でも御朱印が頂けます。

御朱印をいただける場所は境内の「宿衛屋(しゅくえいや)」でいただくことができます。

⬆️月夜見宮の宿衛屋

なお、ここではお守りも授与されており、お守りの数や種類も内宮・外宮とほぼ同様となっています。

中央に押印がされている「月夜見宮」の御朱印

「月夜見宮」の御朱印の値段(初穂料)

  • 300円

【補足】伊勢神宮でもらえる御朱印の数は7個!

なお、伊勢神宮で御朱印を頂ける場所は次の7ヶ所で1つずつ、合計で7個いただけます。

外宮内宮月読宮瀧原宮伊雑宮倭姫宮月夜見宮

※内宮・外宮の御朱印は「神楽殿」で受付ています。

※また、お宮によっては稀に無人になる所もあるようです。

さらに、伊勢神宮周辺の神社では、二見輿玉神社(竜宮社)猿田彦神社、茜社(外宮勾玉池中央)、足神さん(宇治神社)などがあり、これらの神社でも御朱印をいただけます。




月夜見宮のお守り(お札)

月夜見宮では独自のお札やお守りを授与しています。

袋入り守り

月夜見宮オリジナル守りになります。

初穂料(値段):1000円
ご利益:健康・招福

剣祓い(御神札)

サイズ:縦27.5㎝、横9.7㎝、厚さ0.5㎝
初穂料(値段):500円
ご利益:商売繁盛・家内安全・事業繁栄

お守り(小サイズ)※守祓

サイズ:小さい(財布に収まるほど)
初穂料(値段):500円
ご利益:健康・招福

月夜見宮の歴史・由来

月夜見宮の創建年はいつ?

月夜見宮がいつ頃から当地に存在するのかは不明とされていますが、推定で456年(安康天皇3年)〜479年(雄略天皇23年)以前※古墳時代には存在していたとされています。

ただし、創建当初は伊勢市沼木あたりの「大河原」と呼ばれた場所に祀られていたようです。その後、外宮の鎮座に併せて現在地へ移してきたようです。

⬆️大河原の場所

一説では、「丹波国造家(たんばのくにのみやつこ)」の血を受け継ぐとされる、度会一族よって創建されたとも考えられており、丹波国造が外宮の正宮でお祀りされてる「豊宇気毘売神(とようけびめ/豊受大御神)」と「月夜見尊」を、丹波の「元伊勢(もといせ)」と呼ばれる土地から遷してきたとも考えられています。

奈良時代には所管社ながら厚遇を受ける!

その後、奈良時代になると理由は定かではありませんが、第一別宮である「多賀宮」の次いで、手厚い崇敬が寄せられていたようです。

平安時代には「月夜見社」と呼ばれていた

804年(延暦213年/平安時代)に編纂された「止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)」の記述では「月夜見社」の記述が見られ、さらに927年(延長5年/平安時代)に編纂された「延喜太神宮式(えんぎだいじんぐうしき)」にも「月夜見社」の記述が見られます。

なお、この当時の月夜見宮の社格は、現在のような外宮の別宮ではなく「所管社(しょかんしゃ)」だったようです。

かつては現在ほどの旧域がなかった?

外宮の神官「度会行忠」が室町時代に著した「伊勢二所大神宮神名秘書」の記述によれば、およそ鎌倉時代から室町時代はこの月夜見宮の建つ地は「大河原」と呼ばれ、たびたび氾濫した宮川の土石が積み上げられていたと伝えられています。

これが事実だとするのであれば現在ほどの宮域はなかったということになります。

この当時、宮川には現在のような強固な堤防がなく、雨季になるとたびたび氾濫し、宮川付近の建物は移築を余儀なくされたそうです。

なお、この相反する事実として1320年(鎌倉時代)に編纂された神道書「類聚神祇本源(るいじゅうじんぎほんげん)」の記述によれば、現在の生垣の端から端までの四方約66mもあり、その上、城郭のような「堀」まで造られていたことが明らかにされています。

1210年(鎌倉時代)に別宮に昇格!

いよいよ伊勢神宮の御神威が皇室および朝廷内外にまで深く浸透すると、後鳥羽天皇の治世では6度にもおよぶ勅使が下向され、この月夜見宮へも足を運び祈願されています。

次いで第83代「土御門(つちみかど)天皇」の治世でもその厚遇は続き、ついに1210年(承元4年/鎌倉時代初頭)に土御門天皇の御下命により宮号が下され、別宮へ昇格します。

月夜見宮の昇格の理由は定かではありませんが、宮川の氾濫の被害を最小限に留めたなど、土宮が末社(田社)から別宮へと昇格したように、伊勢の地の鎮守に関与してたものと思われます。

鎌倉時代以降、宮域が縮小されていく

伊勢神宮の社伝によれば、およそ鎌倉時代を境にどこからどこまでが宮域かの区別がつかなくなったとの事。

以来、徐々に宮域は小さくなっていったようですが、太閤秀吉による太閤検地の折、「伊勢の大神宮は無税」とされ、宮川より向こう側は大神宮の神域として対象外とされたようです。

1419年(室町時代)に月夜見宮炎上す!

実は、かつて月夜見宮には「小殿(おどの)」と呼ばれる御社殿がありましたが、この中で「月夜見尊荒御魂」が祭祀されていたようです。

つまり宮域には現在のように1つだけの御社殿ではなく、2つの御社殿が隣接し、並列上に並んでいたということです。

しかし、1419年(応永26年)に発生した火災により焼亡に至り、以後、小殿の方は再建されることなく、現在見られるような2柱が1つ社殿で相殿という形式で祭祀されています。

江戸時代には宮域や整備され社殿も改修される

江戸時代になるとさらに幾度か土地の区画整理が行われ、およそ現在みらるような宮域が整えられていきます。

1945年(昭和20年)に宮域に焼夷弾が着弾?!

1945年(昭和20年)7月28日・29日には太平洋戦争における米軍による宇治山田空襲が開始され、月夜見宮周辺のありとあらゆる建造物は焼亡に至ります。

しかし、地元住民や軍隊の懸命な消火活動によって、月夜見宮の御本殿だけは類焼を免れており、当時を知る人の話によれば、月夜見宮の御社殿以外、焼け野原状態だったようです。

なお、この空襲により、残念ながら宿衛屋にいた職員は命を散らしています。

1947年(昭和22年)に「月夜見講」が発足!

戦後直後となる1947年(昭和22年)には、月夜見宮および外宮、伊勢の街の復興を祈願し、地元の崇敬者を中心とした「月夜見講」が発足します。

今日に至っては「月夜見宮奉賛会」と改称し、例年、執り行われる例大祭(4月19日&9月19日)は奉賛会の主宰により執り行われています。

これらの日には普段は静寂に包まれた月夜見宮の境内も賑わい、境内では餅まきや舞踊が催されます。

なお、「奉賛会(ほうさんかい)」とは復興などの目的を達成するために結成された団体のことです。他に神社さんの運営を支援したりもします。

月夜見宮の創建の理由

農業の繁栄や豊作を祈念して創建した説

現在の「カレンダー」の起源を辿れば「太陰太陽暦」がそれに該当します。かつての暦とは太陽の動きと月の動きを読みとって定めていました。

伊勢神宮が創建された古代の日本では陰暦が採用されていましたので「月を読む」とは、現代で言うところの「暦(こよみ)」を見ることと等しくなります。

明治以前は、大陰暦(太陰太陽暦)でしたから、月の満ち欠けは重要な時間の指標でした。

従来から、この伊勢の地は氾濫が起きるほど水に恵まれ、農耕が盛んな地域でしたので「種まき」や「収穫の季節(時期)」、他には、五穀豊穣などを祈願する「祭事を執り行う時刻や日程」などを、できるだけ正しく知る必要があったと思われます。

そのため「月」と「太陽」は生活を何不自由なく営む上で、非常に重要なファクターを占めており、これはもはや切っても切り離せない関係だったことが想像につきます。

「表裏一体」とはまさにこのことです。

考え方によっては御正宮で「太陽の神様」を別宮で「夜の神様」をお祀りしていると言った、1つの解釈が成り立ってきます。

実際にひと昔前の神宮では内宮で太陽の神を祀り、外宮で月の神を祀っていると言う俗説まで広まったようです。

つまり、この月夜見宮は農業とも非常にゆかりの深いお宮と言えます。

なお、これについて言及するのであれば、日本には「月を読んだり崇めたりする」といった文化はなかったと云われています。

内宮に対抗して創建された説

もう1つの創建の理由としては外宮の神主(祠官)であった度会氏(磯部氏)が、内宮の神官である「荒木田氏」に対抗するために、月読宮(一説では男性の神様)に対抗して月夜見宮を”女性の神様”として丹波から招いて祭祀したとも考えられています。

例えば「続・日本書紀」という古書物の記述によれば、現在のように「外宮」とは呼ばずに「豊受宮」や「度会宮」などの文字が見えます。

”度会宮”と出てくる以上、それだけ度会氏の影響力が神宮内外に及んでいたことを意味します。

度会氏といえば、独自の神道である度会神道(伊勢神道)を唱え、中世には外宮の神「豊受大御神」を高天原に最初に現出した神「天之御中主神」や、地上の根源神「国常立尊」と同一視し、内宮の神(天照大御神)よりも格上だったなどとする異論を唱えて、神宮内のみならず、世をかき乱したことで知られています。




月夜見宮の御祭神「月夜見尊」

月夜見尊

御祭神は「月夜見尊(つきよみのみこと)」と「月夜見尊御魂」という2柱神がお祀りされています。

そして、これらの神様は1つの御殿に祀られています。

月夜見尊とは「三貴子(さんきし)」と呼称される三兄弟の一柱の神様です。

三貴子

  1. 天照大御神
  2. 素戔男尊
  3. 月読尊(月夜見尊)

さらに内宮に鎮座される天照大御神と同時に誕生した神とされ「素戔男尊(すさのおのみこと)」の兄神にあたるとされています。

日本書紀においては天照大御神の弟神とされ、つまりは男神であるとされています。地元では白馬に乗って夜な夜な外宮へ赴くという伝承が残されており、故に「月夜見尊は王子様」とも言われています。

古事記によると”月読尊(つくよみのみこと)”、日本書紀によると”月夜見尊(つきよみのみこと)”もしくは”月の神”との記述があります。

以上のことから「月読尊も月夜見尊を御同体の神様である」と考えることができます。

月夜見尊には34もの別名がある?!

月夜見尊には厳密には34もの別名があるとされています。

月読尊の別名一覧(一部割愛)

月読命、月読神、月読大神、月読廼神、月読之神、月読比賣命、月読姫命、月夜見尊、月夜見命、月夜見大神、月夜見之命、月夜美命、月予見命、幸魂月夜見尊、左月弓尊、中月夜見尊、津気夜見命、天月読命、..etc

えぇっ?!月夜見尊が白馬に変身して外宮へ詣でる?!

地元伊勢では、なんでもこの月夜見尊が白馬に変身して、夜な夜な御社殿から飛び出して外宮に座する豊受大御神に会いに行くという言い伝えがあるようです。

しかし、正しくは御社殿から飛び出して、手持った杖を宮域の石垣にコツンと当てると、その石垣がたちまちのうちに白馬の姿に変わり、その白馬に乗って外宮へ向かわれるそうです。

そのため月夜見宮から外宮へまっすぐに延びる道(道路)は古来、”神が通る路”として、「神路通り(かみじとおり)」と呼ばれ、地元の人々は夜出歩くのを控え、道の真ん中を歩くのをはばかる風習が残されています。

理由はもちろん、白馬の背にまたがった神(月夜見尊)が通るからです。

そのことを証明するかのように実際に神路通りは中央部分だけ色が異なります。

⬆️神路通りから道路のデザインがレンガ舗装になっている。中央だけ色が違う。

月夜見尊が月の神になった本当の理由があった??

月夜見尊は、内宮に鎮座される天照大御神とは相対する関係で考えられてきた神様でもあります。

これは「太陽=昼間」と「月=夜」の意味合いに基づくものです。

日本書紀の記述によれば、あるとき天照大御神から保食神(うけもちのかみ)と会食するように言われ、保食神と会うことになります。

しかし月夜見尊が会食の場に到着すると膳(テーブル)には何もありませんでした。そこで月夜見尊は保食神にこう告げます。

「会食と聞いてきたが、この膳には何もないではないか。いったいどうなっているんだ」

それを聞いた保食神はなんと!いきなり口から大量の食べものを吐いて、たちまちのうちに膳にたくさんの食べ物を盛り付けたのです。

しかし、その様子を見た月夜見尊は「口から吐いた物を私に食べろと言うのか!」と言って激怒し、保食神を殺してしいます。

この事を知った天照大御神は「汝はなんて悪しき神なのだ」と言って悲しみ、月夜見尊を夜の世界へ追いやってしまいます。

こうして昼と夜をキッチリと分けることで月夜見尊と2度と会うことがないようにしたのです。

なお、この神話は昼と夜の起源につながるものであり、月夜見尊が「夜之食国(よるのおすくに)」の主宰者と呼ばれるのはこのためです。(食国=”天皇(神)の統治なさる国”の意味がある)

月夜見宮の御祭神「月夜見尊荒御魂」

月夜見尊荒御魂は、月夜見尊(月読尊)の「荒ぶった魂」のことです。

荒魂(あらたま)」の逆の表現を持つ魂として「和魂(にぎたま)」があります。

和魂とは、慈悲や寛大な心といった、神様の穏やかな心の側面を示す魂です。

通常、伊勢神宮では神様の「荒魂」と「和魂」とを分けてお祀りすることが多いのですが、この月夜見宮に関しては上述のような経緯があり、1つの社殿で月夜見尊と同時にお祀りされています。

荒魂は神のパワーが凝縮されたものでもある!

荒魂には、神様の荒ぶる魂が祀られていますので、これが「荒ぶった魂=パワーの源」という解釈が成り立ち、現在、この月夜見宮はパワースポットとしても位置づけられているようです。

えぇっ?!かつては月の神は男性の神様と信じられていた??

現在までの通説では、月夜見尊の性別は不明とされていますが、上述したように日本書紀においては”弟神”と表現されています。

これについて言及すれば、伊勢の地元人の間では月の神は「男性の神様」と信仰されており、やはり性別的には男性の神というイメージが強いようです。

これが事実であるならば、単純に「太陽=昼間=太陽神である”天照大御神”」と「月=夜つまり、”月夜見尊”」という関係は対照的でありながら、内宮で祭祀されている「天照大御神(女性の神様)」と「月夜見尊(男性の神様)」は対称的であるという点にも注目したいところです。

月夜見尊(月読尊)は謎が多い神様

月読尊は謎が多く、記紀神話(日本書紀・古事記)によると夜の世界を治めていただけではなく、天照大御神と一緒に天界を治めていたり、あるいは日本書紀の記載の一部では、海の世界をも治めていたとされる説があります。

定説では父神の「伊邪那伎命」の命令によって以下の世界をそれぞれ治めたとされています。

  • 天照大御神は「天界(高天ヶ原)」
  • 月夜見尊は「夜の世界」
  • 建速須佐之男命(スサノオ)は「海」

「古事記」によれば、「伊邪那伎命(イザナギノミコト)」の右目から生まれたとされ、もう片方の目からは「天照大御神」が産まれ、鼻からは「建速須佐之男命(スサノオノミコト)」が産まれたとされています。

しかし「日本書紀」においては「古事記」とは逆説の記載があり、月夜見尊は「イザナギ神の左目から産まれ出でた」とされていたり、他にも「イザナギ神が右手に持った白銅鏡から産まれ出でた」とされる説などもあります。

月読宮と月夜見宮の違い

伊勢神宮の内宮・別宮には、この外宮の月夜見宮と相対する形で「月読宮(月讀宮/つきよみのみや)」が存在し、御祭神として「月読宮(つきよみのみこと)」という神様が祀られています。

上述した通り、双方同じ神様と言えますが、昔は別の神様として崇敬が寄せられていたようです。

🐣ピヨ01

まず、もっともな違いは漢字が違う。

🐣ピヨ02

場所の違い(月夜見宮は外宮付近、月読宮は内宮付近に祀られている)

🐣ピヨ03

月読宮は「荒魂が別の御社殿」で祭祀(おまつり)されている。月夜見宮では「荒魂が一緒の御社殿」で祭祀(おまつり)されている。

🐣ピヨ04

かつては「月読は男性の神様」で「月夜見は女性の神様」だという俗説もあった。

🐣ピヨ05

「月読」とは字体のとおり、「月を読む」ことを主体としていることから、すなわち月齢(太陽との位置関係)を数える事であり、逆に日を数えるとは暦を数えることと言える。
つまり「月読」とは農耕や潮の干満と非常に深い関係性がある言葉だと言える。

一方で「月夜見」というのは、「黄泉(よみ)」を「夜見」とも書くことからこれは月夜見尊が黄泉の国の主宰神であることを示したものだと推察することができる。

なお、月読尊を祀る「月読神社」の解釈によれば「月夜」とは単に「月が出た夜のこと」を意味し「見」は「心霊」を表すとのこと。まとめると月夜見とは「月を神格化した言葉」とのこと。




月夜見宮(境内)の境内社「摂社・高河原神社」

月夜見宮(境内)・摂社「高河原神社」
創建年

  • 不明
  • 推定:804年(延暦23年)以前
建築様式(造り)

  • 切妻造
  • 平入

※神明造り

屋根造り

  • 板葺き
御祭神

  • 月夜見尊御魂
社格

  • 伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)「摂社」

月夜見宮の境内には、「高河原神社(たかがわらじんじゃ)」と呼ばれる神社があります。

この神社の主祭神「月夜見尊御魂」は月夜見宮でお祀りしている「月夜見尊御魂」と同じ神様です。

月夜見尊御魂と宇迦之御魂神が同じ神?!

一説には月夜見尊御魂と「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」や「国魂神(くにたまのかみ/国生神)」が同一の神であるという見方もあるようです。

宇迦之御魂神とは、すなわち外宮の御正宮でお祀りされている「豊受大御神」のことであり、国魂神と神様とは日本の各地でもお祀りされている土地神のことです。

「高河原」の名前が示すもの

高河原神社の「高河原」とは、かつて伊勢に存在した地名である「高河原」に由来するものだと云われております。

高河原とは、かつて宮川の畔にあった場所のことだとされており、現在の月夜見宮のもう少し宮川寄りの場所だと推測されます。

高河原はかつて斎宮の離宮院が建っていた場所であり、この離宮院は797年(延暦16年/平安時代)に現在の三重県伊勢市小俣町本町に移されています。

移された理由は、度会行忠が室町時代に著した「伊勢二所大神宮神名秘書」の記述によれば、「高河原の地は度重なる宮川の氾濫による浸水に悩まされてきた。そこで797年(延暦16年)に離宮院は度会郡油田郷宇羽西村(現在の伊勢市小俣町)へ移した」などのことが記されています。

もし高河原神社が797年頃、離宮院付近に存在したのであれば、797年(延暦16年)に当地に移築された可能性も浮上してきます。

なお、この神様が当地に祀られた理由は高河原の土地一帯の鎮守神(守護神)として祀られたようです。

その他の説では、当地で開拓が行われた際、古くから鎮座する土地神を鎮守する目的でお祀りされたとも云われています。

高河原神社の歴史・創建年

高河原神社の創建年は不明とされていますが、804年(延暦23年)以前にはすでに創建されていたとされたと考えられています。

創建当初は現在のように月夜見尊御魂をお祀りした神社ではなく、地元の土地神を祀った神社だったと推察されています。

また、当神社の名前についてですが、創建当初から「高河原」が付されていたわけではなかったようです。

例えば、延喜式神名式では「川原坐国生神社(かわらにますくなりじんじゃ)」との記述が見られ、止由気宮儀式帳には「高河原社」の名前も見られます。

以降の経緯は不明ですが、1419年(応永26年/室町時代)頃までは、同じ伊勢市内にある「須原大社(すはらおおやしろ/伊勢市一之木)」の境内にて境内社として祭祀されていたようです。

この後、1663年(寛文3年)に現在の地に移築されており、すなわちこれが現在見ることのできる高河原神社の姿です。

参考文献・御巫 清直 著「神宮神事考證」 

月夜見宮で執り行われる神事

ここ月夜見宮でも祭事が執り行われ、これは御正宮に次ぐほどの規模の祭事が執り行われています。

祈年祭(きねんさい)

祈年祭の日程

  • 2月18日
祈年祭の内容

今年の作物全般においての豊穣を祈願するお祀りです。
同時に国家鎮守も祈願します。

月次祭(つきなみさい)

月次祭の日程

  • 6月18日と19日・12月11日
月次祭の内容

別名・「三節祭」や「三時祭」とも呼ばれています。
国家鎮守と天皇の長寿と健康を祈願する御祭事です。

神嘗祭(かんなめさい)

神嘗祭の日程

  • 10月18日と19日
神嘗祭の内容

「大御饌(おおみけ)」の名前のとおり、その年に収穫された最高の作物を神様へお捧げして、今年の感謝と来年の豊作の祈祷をお捧げします。

新嘗祭(にいなめさい)

新嘗祭の日程

  • 11月24日
新嘗祭の内容

その年の穀物の収穫を祝うお祭りです。
天皇陛下がその年に収穫された穀物を食し、同時に神様へもお捧げします。

なお、これらのお祀りには皇室(天皇)から、神様への捧げ物があります。

【補足】神社の社格制度について

外宮にはこの月夜見宮を含めて合計で4つの別宮が存在しますが、社格としての位置づけは3番目です。

この社格制度は、お宮の創建年や現在に至るまでの歴史的背景、御祭神の位置づけなどが吟味され、その結果に基づいて社格が付されています。

すなわち、古の「延喜式の9巻・10巻(神名帳)」と明治時代に再編された「神名帳」基づいたものです。

ただ、現代においては社格制度が廃止されており、一応は「神社の社格は無い」とされております。

しかし、こと伊勢神宮に関しては神社ではなく、やはり「日本の神宮」という位置づけになりますので、社格という概念に当てはめるのが畏れ多いとされており、社格制度には存在しない神社となっています。

月夜見宮の場所とアクセス方法

場所(住所):伊勢市宮後1

  • 外宮北御門口から徒歩約5分
  • 伊勢市駅から徒歩約6分

月夜見宮を経由した伊勢神宮参拝おすすめルート

外宮月夜見宮倭姫宮徴古館)⇒月読宮猿田彦神社内宮おかげ横丁

バスと徒歩を利用する場合

外宮→徒歩約10分→月夜見宮→(徒歩約6分)→伊勢市駅→三重交通バス51系統へ乗車→徴古館前バス停→(徒歩約3分)→倭姫宮→徴古館前バス停→中村町バス停→(徒歩約6分)→月読宮→中村町バス停→猿田彦神社前バス停→猿田彦神社→猿田彦神社前バス停→内宮前バス停→内宮(宇治橋)→(徒歩約5分)→おかげ横丁

電車(近鉄)を利用した場合

外宮→徒歩約10分→月夜見宮→近鉄伊勢市駅→近鉄五十鈴川駅→徒歩約10分(もしくはタクシー)→月読宮→猿田彦神社→内宮→おかげ横丁

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