伊勢神宮(-JINGU-)◆ 風日祈宮(KAZAHINO-MINOMIYA)
創建年
- 不明
- 推定約997年(長徳3年)以前
建築様式(造り)
- 切妻造り
- 平入
- 掘立柱
※神明造り
屋根の造り
- 茅葺き(萱葺)
鰹木の数
- 6本
千木の形
- 内削ぎ
素材
- 檜(ヒノキ)
大きさ(正殿)
- 棟持柱の高さ(地面から棟まで):不明
- 梁間:不明
- 桁行:不明
鳥居の形式(境内)
- 神明鳥居(伊勢鳥居)
御祭神
- 級長津彦命
- 級長戸辺命
社格
- 伊勢神宮・内宮(皇大神宮)「別宮」
風日祈宮の読み方
伊勢神宮の境内には、内宮・外宮ともに、少し読みにくい漢字のお社があります。
ちなみに、風日祈宮の読み方は「かざひのみのみや」と読みます。
風日祈宮の伊勢神宮・内宮、別宮における社格の順位は、10社中の9位のお社となっています。
風日祈宮の名前の意味と由来
「風日祈宮」と言う呼称は少し特殊で変わった呼称をしていますが、こんな意味や由来があります。
風日祈宮の「風日祈」とはその昔、例年7月1日から8月末日の間の毎日、朝夕に風雨からの災害から守護していただくために祈りを捧げていた神事の名前に由来しています。
古来、この風日祈宮には上述したような祈祷を捧げる「日祈内人(ひのみのうちんど)」と呼称される「専門の神職」が奉公していたようです。
ちなみに上述の風日祈の神事は中止された訳ではなく短期間とはなりますが現在でも執り行われており、例年5月14日と8月4日に行われている風日祈祭がこれに該当します。
御祭神「級長津彦命」・「級長戸辺命」
まず「級長津彦命」の読み方は、「しなつひこ」と読みます。
他にも「志那都彦神」とも表記されるようです。
一方、「級長戸辺命」の読み方は「しなとべのみこと」と読みます。
「級長津彦命」には別名があり「天御柱神(あまみのはしらのかみ)」と呼称します。
「級長戸辺命」も別名があり「国御柱神(くにのみはしらのかみ)」とも呼称します。
この2人の神様は一説では同じ神様だと云われており、これは「伊邪那岐命(いざなぎのみこと)」・「伊邪那美命(いざなみのみこと)」の神産みの時に生まれた神様とされています。
しかし、日本書記によると「伊邪那岐命の息から生まれた神様」とも云われております。
ちなみに、「しなつひこ」「しなとべのみこと」の「しな」は、「息が長い」と言う意味合いになるそうです。
他にも、「級長戸辺命」は女性の神様で、「級長津彦命」は男性の神様という説もあり、男女の神様の説に起因した以下↓のような説があります。
- 「級長戸辺命」の弟が「級長津彦命」
- 「級長津彦命」の妻が「級長戸辺命」
「級長津彦命」・「級長戸辺命」のご利益
「級長津彦命」・「級長戸辺命」は、風の神とされていることから、海上厄災避け・海上交通安全の神様とされているようです。
他にも、「風⇒風邪」は、読み方は同じでも、違う意味合いとなります。
そんなことから、古来から「風邪」にもご利益がある神様として崇められてきたそうです。
風日祈宮の歴史・由来
風日祈宮は、元来、「風神社」と呼称されていました。
「風神社」とは、伊勢の地に古から伝承されている特殊な神社ではなく、日本全国の至る場所で見受けられます。
特に農耕が盛んで、米と魚が主食であった日本民族にとっては「風」の恵みも大事とされてきました。
作物を育てる上で、風と水の力は必要不可欠であり、また、漁業においても同様に同じことが言え、風と水に逆らっては生きていけないといった大変、重要な事でした。
そこで、風の神を崇めるために社を築いたとされています。
現在でも、田畑が多い地域などには、「風神社」と呼ばれる「風の神」をお祀りした神社を、見受けることができるかも知れません。
伊勢の地域にあったとされる風神社は、外宮の境内と内宮の境内にそれぞれ1つずつ建てられていたと伝わっています。
後に内宮の風神社は「風日祈宮」と呼称され、外宮の風神社は「風宮」と呼称されるようになっています。
風宮と風日祈宮との違い
伊勢神宮には、「風」と名の付くお宮がもう1つ外宮に存在します。それが外宮・別宮の「風宮(かぜのみや)」です。
例年、風宮と風日祈宮では、以下↓のような日程で「風日祈祭(かざひのみさい)」が執り行われております。
- 5月14日:午前9時から「外宮の風宮」その後に「内宮の風日祈宮」
- 8月4日:午前9時から「外宮の風宮」その後に「内宮の風日祈宮」
なお、風日祈宮の名前の由来は「風日祈祭」に由来して付されたと云われております。しかし、外宮の「風宮」だけ名前が違う理由は、現在も定かではありません。
区別を付けるために、違うネーミングを付けられたのでしょうか。
他に、違いといえばお社の名前と社殿の屋根の上の「鰹木(かつおぎ)の数」が「偶数」か「奇数」かの違いとなります。
なお、鰹木の数の違いに関しては、双方のお宮の所属する、「御正殿の鰹木の数の違い」に由来するものです。
風日祈宮と元寇においての神風伝説
元寇の発端
この話は1268年(文永5年)にモンゴル帝国の皇帝「フビライ」が九州の太宰府に書状を持たせた使者を送ってきたのが事の始まりで、友好を結ぶ内容の書状だったようですが、書状の最後の一文に「我は出兵は好まない」と書かれていたことが事の発端です。
その後も幾度か使者を送ってきたようですが、1269年(文永6年)に使者が訪れた時にようやく日本もフビライの使者に対して日本の意を伝える書状を持たせて返しています。
その内容はこうです。
「日本という国は天照大御神に守護され、その子孫である天皇が代々治める国であり、全土に天皇の徳が及んでいる神の国である。」
この文章がフビライに届けられることはなかったようですが、仏教まっさかりであった鎌倉時代の日本にも天照大神への信仰が根付ていたことの根拠になります。
この後、拒み続けたことで業を煮やしたフビライは1274年(文永11年)、ついにおよそ3万もの軍勢を日本へ差し向けて博多を襲撃させます。
しかし夜襲を警戒したのか、夜になれば船へ引き上げたそうで、そのときにちょうど暴風雨が吹いて船がすべて沈没したという話です。これが1回目の襲撃です。
2回目の元寇
2回目はそれから7年後の1281年(弘安4年)の時です。この時は14万というケタ外れの大軍を擁し、再び博多に来襲します。
鎌倉幕府は日本の武士をすべて博多に結集させ、その日本の武士たちの勇ましい戦いぶりにより善戦し、上陸を許さなかったようです。
しかししばらく経ったある日のこと、今度は台風がやってきてフビライ艦隊は海の藻屑と消え失せ、命からがら残った船だけで撤退することになります。
この二度にも及んだ大風は、当時の人々を勇気づけ歓喜に沸き立たせ、「日本は本当に大神に守られている神の国だ」とう認識がいっそう広まることとなり、以後、この一連の出来事は「神風」と呼ばれるようになります。
ただ、2回目の「弘安の役」の際、実は朝廷は日本国の勝利を願って大納言「二条為氏」を伊勢神宮へ遣わし、この時、二条為氏は風社(風日祈宮)にも参拝したようです。
その結果、見事に日本は勝利を収めたものだから、朝廷も風社の御神威を認めることになり、「風社から→風日祈宮」と名前を改めさせて神社としての格を「別宮」へと昇格させることになったのです。
風日祈宮と元寇における神風伝説が脚色されたフィクションだとも
上述したように外宮の風宮、風日祈宮、双方のお宮にご鎮座される神様が、「元寇の役」において、2度も「大風(神風)」を吹かせて10万近くの敵と、多くの敵船団を沈めたとされています。
しかし厳密には、この説に関しては、多少、脚色された要素が大きく、実際には風以外の要因が災いして敵を壊滅に追い込んだとも考えられています。
この根拠としては、2度の元寇が行われた際の時期にどうみても「台風が吹き荒れる季節ではない」と考えられているからです。
つまりこれは、勝利などで歓喜した際に湧き起こる「何かをかつぎ立てる衝動」といった人間の性分から生まれた、「創作(作り話)のようなものであった」ということも考えられるということです。
ただ、朝鮮半島の「高句麗」に現存する古書物にはハッキリと「大風が吹いた」と記されており、もし、本当に大風が吹いたとするのであれば、これは本当に御神威ということに他なりません。
ちなみに、これ以降、「風宮」と「風日祈宮」の社格は「別宮」への昇格しており、以後は日本の未来が左右されるような国政を定める時には、風宮と風日祈宮において大きな祭事(神事)や祈祷が行われるようになっています。
その他の神風伝説
伊勢津彦の神風伝説
上記の「神風」には実は「神風」の言葉の語源ともなった出来事が存在します。
その出来事とは、まだ伊勢神宮が創建される前の神話の時代、かつて伊勢国は「伊勢津彦(いせつひこ)」という神が治めていましたが、やがて後に「伊勢国造(いせのくにみやつこ)」となる「天日別命(あめのわけのみこと)」という神が伊勢国を統治することになります。
この天日別命は神宮創建後に外宮の神主を勤めることになるのですが、この神主こそ有名な伊勢神道(いせしんとう)を唱えて外宮および伊勢神宮を牛耳ろうとした度会氏(わたらいし)の祖先にあたります。
伊勢津彦は伊勢を去る際、御身を太陽のごとく光り輝かせながら、伊勢湾や日本海の海面に高波が立つほどの強風を巻き起こして東へ向かって去っていったそうです。
この出来事からしばらくした後に倭姫命が伊勢の地に到着しますが、この時、ほどよく弱まった心地よき風と、波の威勢が大変、美しく見えたことから、天照大御神はこう告げられたそうです。
「神風が吹き起こる国・伊勢。波はまるで常世の波のように美しい。わたしはこの美しい伊勢の国に鎮まりたい」
と、このように告げ、今日にみる内宮が創建されることになります。
【補足】伊勢神道とは?
伊勢神道とは、「神道五部書(しんとうごぶしょ)」という書典を中心とした、度会氏独自の神道の考え方・あり方についてまとめた本のことです。
伊勢神道は別称で「度会神道」とも呼ばれ、外宮の祭神「豊受大御神」が、天界・地上世界の実質の最高神であると唱え、その根拠として天界の根源神「天之御中主神(あめのみなかぬし)」および国土の根源神「国之常立尊(くにのとこたちのみこと)」と豊受大御神が同一の神であると唱えた独自の神道のことです。
世界はまず、天地開闢(てんちかいびゃく)と呼ばれるキッカケ(出来事)から誕生します。
天地開闢によって最初に誕生したものが神ではなく世界です。その最初に誕生した世界とは、天照大御神が御座す「高天原(たかまがはら)」です。
高天原の次に誕生したのが「造化の三神」と呼ばれる三柱の神様たちで、その中の一柱が「天之御中主神」になります。
天之御中主神が最高神と位置づけられるにはこのためです。ウフ
その後に形のない整っていない土の塊であった大地が誕生しますが、この時に同時に国之常立尊が誕生しています。国之常立尊が国土の根源神と呼ばれるのはこのためです。
その不成立な大地を、形ある国土として日本大陸を創造したのが、その後に誕生した有名なイザナギ神・イザナミ神です。最初に現在の淡路島や隠岐島を創造したとされています。
以上、長くなってしまいましたが、これらの神々は上述した4柱の神々以外にも、あと3柱の神々が誕生しており、合計で7柱(7人)の神々が、ほぼ同じタイミングで誕生したことから「神代七代(かみのよななよ/神世七代)」とも呼ばれています。
「大海人皇子(天武天皇)」の神風伝説
天武天皇元年(672年頃)頃、天智天皇の息子である大友皇子と大海人皇子(天武天皇)が起こした「壬申の乱(じんしんのらん)」の最中、突如、大友皇子の陣に強風が吹いて、大海人皇子が勝利したという神風伝説が残されています。
詳しくは、この神風が吹いた後、大友皇子の軍勢は狼狽し、これが大海人皇子の勝利につながったことから、後に歌人・柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が天武天皇(大海人皇子)の息子「高市皇子(たけちのみこ)」が崩御された際、このような歌を詠んでいます。
「伊勢神宮から突如、吹いた神風が相手を大いに惑わした。この神風はさらに天雲(雷雲)をも呼び寄せ、相手を大いに盲目にした」
と。
尚、この歌は柿本人麻呂の長歌として知られ、日本最古の和歌集である「万葉集(まんようしゅう)」にも記述されている歌です。
ちなみに、この天武天皇こそが現在まで続く、伊勢神宮の大祭「式年遷宮(しきねんせんぐう)」を初めて「例大祭」と定めた人物です。(実際に挙行したのは妻の持統天皇)
えぇっ?!風日祈宮は伊勢神宮では有数の風水の力が集まるパワースポットだった?!
風日祈宮がパワースポットであるという話がありますが、そもそも、伊勢神宮自体が究極のパワースポットと云われています。
その根拠とは、日本の宗教という概念を超越した存在であり、誰もが知る神社であり、考えもなく、ただただ手を合わすといったような、無の信仰をもっとも集積しているからに他なりません。
すなわち、これが「神宮である」が所以です。
そして、その伊勢神宮の中でも、この風日祈宮が、もっともパワーという波動を放っているとも云われています。
風水師によれば、風日祈宮に通じる風日祈宮橋は、真下を流れる川の方向と、陸地・森林などの地形のバランスが絶妙で、その陸地と水の上に位置するこの橋の上が、もっともパワーが集まっているそうです。
純粋な心を持つ、あなたであれば、このパワーを感じ取ることができるかも知れません。
伊勢神宮・内宮(別宮)風日祈宮の場所(地図)
参道を直進して神楽殿前の「二の鳥居」を右へ入り、後はひたすら直進します。やがて「橋(風日祈宮橋)」が出てきますので、その橋を超えた先です。