伊勢神宮・内宮(-JINGU- ◆ NAIKU)『正宮(SHOUGU)』
創建年/建築様式など
創建年 | 不明 推定:垂仁天皇26年(西暦紀元前4年/弥生時代) |
建築様式(造り) | 切妻造、平入、掘立柱、素木造 ※唯一神明造※ |
五色・据玉(すえだま/宝玉) ※御正殿の高欄上部 | 33個 |
屋根の造り | 茅葺き |
屋根の材料 | 檜(ヒノキ) |
御正殿外周の造り | 簀子縁(すのこえん) |
正殿の大きさ
棟持柱の高さ (地面から棟まで) | 10,30m/径79㎝ |
地面から床まで | 約02,05m |
梁間(横幅) | 11,18メートル |
桁行(奥行) | 05,45m |
御正宮の敷地面積 | 6,807平方メートル |
御祭神(御正殿内)
- 天照大御神
- 天手力男神(相殿)
- 栲幡千千姫命(萬幡豊秋津師比売命)(相殿)
御祭神(御垣内)
- 興玉神(御垣内北西鎮座)
- 宮比神(御垣内北西鎮座)
- 屋乃波比伎神(正宮の石階段右脇に東鎮座)
社格
- 伊勢神宮・内宮(皇大神宮)「正宮(本殿)」
項・一覧
- 1 伊勢神宮・内宮(-JINGU- ◆ NAIKU)『正宮(SHOUGU)』
- 2 伊勢神宮「内宮・正宮」の読み方
- 3 内宮・正宮(皇大神宮)の御祭神「天照大御神」
- 4 内宮・正宮(皇大神宮)の御祭神「天照大御神」のご利益
- 5 八咫鏡の祀られ方
- 6 内宮・御正殿にお祀りされている神様は他にもいた!!
- 7 その他の御祭神
- 8 内宮(皇大神宮)御正宮「御正殿」の屋根の建築様式(造り)
- 9 えぇっ?!千木の形状や鰹木の数で主祭神の性別が分かるって??
- 10 伊勢神宮の内宮(皇大神宮)・正宮の内部の構成【写真/画像図】
- 11 伊勢神宮・内宮「北宿衛屋・南宿衛屋」
- 12 中重と中重鳥居
- 13 伊勢神宮・内宮「四丈殿」
- 14 伊勢神宮・内宮「東宝殿・西宝殿」
- 15 正宮の配置(デザイン)は今と昔で違っていた?!
- 16 御正殿へたどり着くための正宮の4重の御垣
- 17 御正殿・八咫鏡(天照大御神)の床下に眠るとされる心御柱とは?
- 18 「延喜式(えんぎしき)」の定めによる伊勢神宮の社格
- 19 内宮・御正宮(皇大神宮)の歴史と皇大神宮の創建
- 20 終わりに・・「伊勢神宮が文化遺産(世界遺産)に登録されない理由」
伊勢神宮「内宮・正宮」の読み方
内宮の読み方
内宮の読み方は「ないぐう」「うちみや」ではなく「内宮(ないくう)」と読みます。
正宮の読み方
正宮とは「せいぐう」や「まさみや」、他には「しょうきゅう」「せいきゅう」などとも読めますが、「正宮(しょうぐう)」と読みます。
正宮とは、御本殿(御正殿)がある御垣内と呼ばれる板垣に囲まれた内宮境内で尊い場所のことです。
内宮・正宮(皇大神宮)の御祭神「天照大御神」
天照大御神の読み方は、「あまてらす おおみかみ」と読みます。
父親は「イザナギ神(伊耶那岐命)」です。
母親は、イザナギ神の妻の「イザナミ神(伊邪那美)」と一般的に見られていますが、大御神をお産みになったのは父親である「イザナギ神」とされております。
天照大御神は、他にも名前を持っており、神宮における正式名は「天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)」とされております。
「皇大御神(すめおおみかみ)」と略する場合もありますが、正式名ではありません。
ちなみに「天照坐皇大御神」と「天照大御神」と見比べると、「天照坐皇大御神」には「坐」と「皇」と言う文字が入っています。
「坐」は昔の「座」の書き方で、つまりは「常に座する(あらせられる)」と言う意味合いを持ち、「皇」は「天帝を意味し、すべてを統べる」と言う意味合いがあります。
天照大御神の他の別名
- 天照意保比流売尊(あまてらすおほひるめのみこと)
- 大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)
- 大日女尊(おおひるめのみこと)
- 大日霊(おおひるめ)
- 大日女(おおひめ)
- 太一(たいち・たいいつ)
他にも神仏習合においての御名として「大日如来(だいにちにょらい)」とも呼ばれています。大日如来は、仏教(密教)においての最高上級仏様です。
「太一」とは古代中国における「宇宙の根源」を意味し、これは「北極星」を神に例えた名称でもあります。
北極星は天の中心と考えられており、つまりは天照大御神のことを意味すると言われています。
それとこれはあまり知られていませんが、上述した「天照坐皇大御神」の名前に基づき、伊勢神宮内宮の正式名は「天照坐皇大神宮(あまてらす すめおほみかみ のみや)」と呼称します。
内宮・正宮(皇大神宮)の御祭神「天照大御神」のご利益
この「天照大御神」は、太陽や光、秩序などを象徴する神様で、日本国民の「総氏神(そううじがみ)」様と言われています。
天皇の祖先でもあらせられることから「大御祖神(おおみおやがみ)」でもあります。
「天照大御神」は、天界にあらせられる神様とされ、これは地上においても神々の中の神という位置づけとされています。
地上においての最高神は出雲大社にご鎮座される大国主大神ですが、天照大御神はさらにその上の神様となり、これはすなわち、日本の神々の中でも「最高上級神」の位置づけとされており、すべてのご利益が備わると云われています。
なお、天照大御神の御神体はご存知の通り「三種の神器」とされる、ラーの・・おっと、「八咫鏡(やたのかがみ)」です!
八咫鏡の祀られ方
通常、御神体は見せるものではないとされていますが、あえて述べさせていただきます。
大御神がお宿りされている御神体の八咫鏡は、「御樋代(みひろしろ)」と呼ばれるヒノキの入れ物の中に「絹(シルク)」に包まれた状態で「寝かされた状態でお祀りている」ようです。
詳しくは、この御樋代は2種類存在し、1つ目は黄金で作られた筒状の入れ物になります。
そして2つ目の御樋代はヒノキで作られた御樋代であり、上述の黄金の御樋代を覆い隠すようにして収められるようです。
さらに、これだけでは終わらずに、なんとぉぅ!「御船代(みふなしろ)」と呼ばれる、大きさ約2mほどのヒノキで作られた「船の形の入れ物」の中に、丁重にフタがされてお祀りされてるようです。
1900年以降、天皇すら御神体を見た者はいない
この黄金の御樋代は1898年(明治31年)に臨時で行われた遷宮の際、何人たりとも二度と開けれないように勅封がなされています。
その2年後となる1900年に御正殿は無事に完成を迎えて御神体が遷(うつ)されていますが、上述したように勅封されていますので、1900年以降、誰も御神体の姿を見た者はいないということになります。
ちなみに、臨時で遷宮が行われた理由は、内宮・参集所からの失火によって、宮域の殿舎が焼失に至ったためであり、その際、御神体を風日祈宮に避難させるという事態にまで窮しています。
この時、御正殿にまで類焼がおよび、結果、神聖な御正殿の屋根が焼け落ちてしまうという最悪の事態にまで発展しています。
この火事の後、上述したように臨時で御正殿が新造され、その2年後となる明治33年(1900年)に完成を無事迎えることになります。
内宮・御正殿にお祀りされている神様は他にもいた!!
これも一般的にはあまり知られておりませんが、実は内宮の御正殿には天照大御神と一緒にお祭されている神様がいます。
しかも、なんと!一緒にお祀りされている神様は「2柱(2人)」もおられるのです。
その神様の名前は「天手力男神」と「栲幡千千姫命」言う神様です。
いずれの神様も大御神を、お支えする頼もしい神様たちです。
「天手力男神」と「栲幡千千姫命」のご利益は以下の通りです。
「天手力男神」のご利益
「天手力男神」の読み方は「あめのたじからお」と読みます。「手の余りある力」を意味する名前の神様です。別名で「手力雄神(たじからおのかみ)」とも称されます。
内宮御正殿においての御神体は「弓」だと云われております。
天手力男神の有名なエピソードとして自慢の怪力をふるい、天の岩戸に閉じこもった天照大御神の手を引いて無理やり連れ出した話は有名です。そのおかげで世界は再び光を取り戻すことができました。
後に天照大御神の甥神「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」の「天孫降臨(てんそんこうりん)」に五部神(いつとものおのかみ)として付き従い、地上へ降っています。
地上へ降りた後は伊勢多気郡の「佐那県(さなのあがた)」に鎮ることになり、以降、社が築かれて現在では「佐那神社(さなじんじゃ)」という名前の神社でお祀りされています。
天手力男神のご利益としては怪力の持ち主ですので「スポーツ力上昇」のほか、「災難除け」「無病息災」「芸能上達」などのご利益があります。
「栲幡千千姫命」のご利益
「栲幡千千姫命」の読み方は「たくはたちぢひめのみこと」と読みます。
内宮御正殿においての「御神体」は「剣」だと云われております。
「栲」は、衣を作る際の繊維となり、「幡」は繊維を織る機械のことを意味しており、すなわち、「織物の神様」と云われています。
これらのことから、ご利益は「アパレル関係(洋服に携わる仕事)・繊維関係のお仕事運の上昇」や「良縁招来」、他にも「安産」「子宝」のご利益があるといわれます。
あまり知られていませんが、天照大御神の子神(息子)「天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)」の妻となり、天孫降臨で有名な上述、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を産んでいます。
つまり、天皇の祖先でもある瓊瓊杵尊の母親ということになります。
相殿神の祀られ方
ここで「相殿神の御神体の祀られ方」についての疑問が残りますが、相殿神の御神体には御樋代が用いられず「御船代」に収められるだけになるようです。
御船代に関しては、内宮外宮ともに共通しているようで、主祭神に1つと、両脇の相殿神に1つずつの御船代が用意されます。
ただし、外宮の場合は主祭神以外に3柱の神様がお祀りされていますので、右脇の2柱の相殿神のみ、2柱一緒に御船代に収められるようです。
また御船代に収める際も絹(きぬ)の布が敷かれて、その中に御樋代や御神体が丁重に収められて、最後は蓋(ふた)がされます。
ここまでで言えることは、主祭神に関しては特に厳重に収められていることが分かります。
外界との間に分厚い何重もの区切りを設けて、可能なかぎり外界の穢れが侵入しないように徹底的して神聖な空間をつくろうとする意志がうかがえます。
つまり、それほど御祭神が尊い存在だという証明でもあり、さらには神聖な空間に御座すからこそ、世の理を超越した御神力をふるえるということです。
外宮の御神体については以下の別ページで触れています。
その他の御祭神
これもあまり知られていませんが、内宮の御垣内には以下のような3柱の神様が祀られています。
- 興玉神
- 宮比神
- 屋乃波比伎神
いずれもの神様も御神体をもたない神様ですが、依り代は石とされていますので性格としては「石神」になります。
興玉神
「おきたまのかみ」と読みます。御垣内北西にある石畳の上に西向きに鎮座されています。
内宮に列する所管社30社のうちの社格順位は滝祭神(たきまつりのかみ)に次ぐ第2位と格の高い神様です。
宮域の土地神とされており、その実態は天孫降臨に際に天孫(天照大御神の孫のニニギのこと)を道案内した猿田彦大神の子神であるとされています。
宮比神
「みやびのかみ」と読みます。御垣内北西にある石畳の上に北向きに鎮座されています。
内宮に列する所管社30社のうちの社格順位は滝祭神、興玉神に次いで第3位の社格を有する神様です。
御正宮を守護する役目を担う神様です。外界からの穢れから御垣内を守っています。
実態は猿田彦大神の妻神である天鈿女命(天宇受賣命/あめのうずめのみこと)であるとされています。
屋乃波比伎神
「やのはひきのかみ」と読みます。御正宮の板垣御門の外側、石階段の右脇に南向きに鎮座されています。御神体は上の2柱と同じく石畳とされています。
内宮に列する所管社30社のうちの社格順位は滝祭神、興玉神に次いで第3位の社格を有する神様です。
御正宮の広場(庭)を守護する神様です。
天照大御神の弟神である「須佐之男命(すさのおのみこと)」の子神となる「大年神」のさらに子神とされています。
これら3柱の神様も一般参拝者は見ることができません。20年ごとの遷宮の時も主祭神(天照大御神)および相殿2柱と共に新造された御正宮へ遷座(移動)します。
内宮(皇大神宮)御正宮「御正殿」の屋根の建築様式(造り)
伊勢神宮の内宮・外宮の御正宮「御正殿」の建築様式は「唯一神明造り(ゆいいつしんめいづくり)」という建築様式で造営されています。
唯一神明造りの詳細については以下の別ページにてご紹介しています。
正宮へ辿り着いたら、やがて30段ほどの石段が参詣者を出迎えてくれます。
この石段は群馬県産の「三波石(さんばせき)」と呼称される石を用いて造られており、湿気の多い日には神秘的な深い緑色を放ちます。
石段を登るといよいよ御正宮の玉垣が見えてきてその間からは「御幌(みとばり)」と言う「純白の垂れ幕」が垂れ下がっているのが見え、同時に殿舎の屋根部分が見えてきます 。
一般参拝者が進入できるのはここまでです。白い布の下は大きなお賽銭箱になっており、ここにお賽銭をソッと入れます。
殿舎の屋根上に載せてある不思議な形状をしたものは、「鰹木(勝男木/かつおぎ/かちおぎ)」や「千木(ちぎ)」と呼ばれるものです。
鰹木(勝男木)とは?
「鰹木(勝男木)」は円柱形状をしていて、魚の鰹(かつお)に似ている形から鰹木と呼ばれています。
鰹木1本の重さは200kg程もあり、屋根の重しのような役割を担っています。
その他、真下の社殿内でお祀りされてる神様の性別によって本数が決められているとも云われ、男性の神様が奇数、女性の神様が偶数となります。
ちなみに内宮・御正殿の鰹木は「10本」、外宮・御正殿の鰹木は「9本」あります。
「千木」とは?
「千木」は、屋根の両端をVの字に飾る「4本の木の板」のことを言います。
一見するとガンダムの頭上の2本の角(Vアンテナ)ようにも見えます。ガンダム行っちゃうよ~
「内宮」の千木は、先端の切り口が水平で、風を通す穴が2つ半あります。
一方、外宮の千木は内宮とは異なり先端が剣先にように尖り、風を通す穴が2つのみです。
この穴ボコは風切穴(かざきりあな)と呼称され、風除けのために設けられていると考えられています。
内宮の御正殿の風切り穴は「2つ半」、外宮の御正殿は「2つ」あります。
「千木」は古い呼称で氷木・比木(ひぎ)とも呼ばれ、氷木の名前にも見られるように火除けの呪い(まじない)の一種とも云われます。
また、鰹木は狩りで得た獲物を屋根上の千木に引っ掛けたり、鰹木に置くことで神様に捧げたとも云われます。アムロも行っちゃうよ〜
えぇっ?!千木の形状や鰹木の数で主祭神の性別が分かるって??
”千木”から汲み取ることのできる御祭神の性別
千木には御祭神の性別を表現しているとも云われており、千木の先が平らな形状のもの(水平型)は、女性の神様が御祭神であることを表現していると云われています。
また、それとは逆に、千木の先が尖っているもの(垂直型)は、男性の神様が御祭神であることを表現しているといいます。
以上のようなことから「外削ぎの千木」は男性の神様を示すものとして「男千木(おちぎ)」、「内削ぎの千木」は女神を示すものとして「女千木(めちぎ)」とも呼称されます。
”鰹木”から判断する御祭神の性別
千木と同じく、鰹木からも神様の性別を判断することができるとされています。
鰹木の数が奇数の場合、男性の神様が、そのお社の御祭神であることを意味しているといいます。
一方、偶数の場合は女性の神様を意味しているといいます。
出雲大社と伊勢神宮を例にして例えた場合、以下のようになります。
出雲大社の御祭神
- 大国主大神=「男性の神様」
千木の形状
- 先が尖っている
勝男木の数
- 奇数(3本)
伊勢神宮・内宮の御祭神
- 天照大御神=「女性の神様」
千木の形状
- 先が平ら(水平。まるでガンダムのVアンテナ)行っちゃうよ〜
鰹木の数
- 偶数(10本)
伊勢神宮の「千木」や「鰹木」には「金色の飾り金具」が施されていますが、素木造りのシンプルな殿舎とは相反する存在ながらも見事に調和し、実に神々しい雰囲気と美しさを醸し出しています。
しかしこれらの千木や鰹木は単に美しさだけではなく、社殿を守るための強度を高めるためのものであると云われております。
ただ、伝承によると遷宮が開始された当初は千木や鰹木に金色の飾り金具は施されていなかったようです。つまり創建当初は、よりシンプルな素木造りの殿舎であったことが想像につきます。
そして、屋根の両端を支えているのが掘建て式の「棟持柱(むなもちばしら)」です。
「棟持柱」は社殿や屋根を支える中心的な柱であり、太さが直径にして約70cm、高さにして約10mあります。
正面の中央には板扉があって、その前には10段の木の階段があります。
伊勢神宮の内宮(皇大神宮)・正宮の内部の構成【写真/画像図】
伊勢神宮の内宮・正宮には、御正殿だけではなく、以下↓のような社殿も建立されています。
伊勢神宮・内宮「北宿衛屋・南宿衛屋」
伊勢神宮の(内宮・外宮)の正宮へ特別参拝(御垣内参拝)をする際、正宮の北側と南側の出入り口に「宿衛屋(しゅくえいや)」と呼ばれる建物があります。
この建物には神宮の神職の方が待機していて、受付をされています。
受付とは「参宮章」を提示して御垣内へ入室する許可を得るための受付です。
つまり、特別参拝(御垣内参拝)のことを指し示します。
宿衛屋では、名簿に名前・住所などの記帳を済ませ、さらに「清めの塩」でのお祓いがあり、その後に神職の方の案内で「中重(なかのえ)」と呼ばれる御垣の中へ進みます。
ちなみに、一般の参拝客が入場できるのは「南側の宿衛屋」からです。
中重と中重鳥居
中重鳥居の左右には八重榊があるが、外宮には八重榊がない。
また中重鳥居の左右に石壺(いしつぼ/いしだたみ石畳とも呼ばれる)があり、この右方に四丈殿がある。
伊勢神宮・内宮「四丈殿」
「四丈殿(よじょうでん)」の四丈とは、建屋の大きさ(丈)を表しています。
すなわち、横幅(正面)約13mの長さあるということになります。
四丈殿は、「中重(なかのえ)」と呼ばれる、少し大きい広場の右脇、南御門の前あたりに建てられています。
四丈殿は、雨天の時に主に使用される社殿であり、主に「大祓」などの行事に使用されます。
御正殿の屋根上に設置されている「堅魚木(かつおぎ)」の数が10本なのに対して、四丈殿は8本なので御正殿は、四丈殿よりもさらに2mから3mほど大きいことになります。
伊勢神宮・内宮「東宝殿・西宝殿」
東宝殿と西宝殿が建つエリアは御正宮の中ではもっとも尊い神域される場所です。このエリア(瑞垣の内部)は敬いを込めて特別に「内院(ないいん)」とも呼ばれています。
正宮の御正殿の北側(裏側)には、お社が2つ並んでいるのが見受けられます。
このお社(社殿)は宝殿といって、古来から伊勢神宮に伝承される秘宝が安置されている云われています。
西宝殿に収められているもの
西宝殿には、40年前(前回のその前の遷宮の時)に奉納された「古神宝類」が、大切に保管されていると云われております。
東宝殿に収められているもの
一方、東宝殿には神宮で執り行われる行事である「月次祭」「神嘗祭」「祈年祭」「新嘗祭」で、天皇(皇室)からの勅使から奉納された品々が、大切に保管されていると云われております。
勅使よりの品々とは、以下↓のような品々になります。
「布帛」「衣服」「紙」「玉」「お酒」
正宮の配置(デザイン)は今と昔で違っていた?!
上記↑の写真(画像)を見ると、御正殿と東西の宝殿の配置は三角系を描いた直線で結ぶことができます。
伊勢神宮は、その一切を古から伝わる伝承を、そのままに執り行っていると云われておりますが、実は御正殿と宝殿の配置が昔と現在とでは少し違った位置だったようです。
少し違った位置とは、江戸時代から明治時代初頭の遷宮時には、御正殿と東西の宝殿が横並びの位置にあったそうです。
つまり、今にみる御正殿と東西宝殿の三角の配置は、1889年(明治22年)の遷宮時からの配置だと云われております。
このように配置が変わった理由としては、次のような理由が考えられています。
- 実は120年もの長い年月、資金不足で遷宮が執り行うことができない時期が存在し記録が失われた。
つまり正しい社殿の位置関係を記した書物などが消え失せた。 - その時代々々に応じた流行に似たような設計方法が存在した。
- 日本を支配した幕府を例とした王朝などが影響を及ぼした。
※正宮の内部は写真撮影が禁止のため、敢えて上空からの写真でご説明をさせていただきます。
伊勢神宮の遷宮についての詳細は以下の別ページでもご紹介しています。
御正殿へたどり着くための正宮の4重の御垣
伊勢神宮・内宮/正宮の「御正殿」では、皇室の先祖神であり、日本人の総氏神とされる「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」が祀られています。
「天照大御神」は「正宮・御正殿」に鎮座されており、「御正殿(ごしょうでん)」は、「5重もの御垣(みかき)」に囲まれています。(外宮は4重)
つまり、御垣のもっとも奥にご鎮座されています。
外側⇒内側への垣根の配置順番
- 板垣(いたがき)
- 外玉垣(とのたまがき)
- 内玉垣(うちたまがき)
- 蕃垣(ばんがき)
- 瑞垣(みずがき)
このうち「蕃垣」と呼ばれる垣根は外宮の正宮には無い。(内宮のみ)
それと、一般の参拝者は「板垣」と呼ばれる最外の垣根までしか参入できない。
分かり易い例で例えると、正宮の入口に垂れ下がっている「御幌(みとばり)」と呼称される「白い布」までです。
そして御正殿にたどり着くための垣根には、上記の5つの垣根の他に「4つの出入り口(門)」がある。
これら4つの出入り口は、各垣根に連接されているもので、北方と南方とに各4つあり、合計で8つあることになる。
ちなみに御正殿は南の方角を向いていますので、御正殿と正対するのは南方向となります。
また、特別参拝では奉納する金額次第で「内玉垣南御門外」まで行くことができます。(特別参拝でも御正殿までは行けません)
4つの出入り口(門)とは、以下↓のような門になります。
御正殿へたどり着くための正宮の4つ門
※外側⇒内側↓
北方向
- 板垣北御門
- 外玉垣北御門
- 内玉垣北御門
- 瑞垣北御門
南方向
- 板垣南御門
- 外玉垣南御門
- 内玉垣南御門
- 瑞垣南御門
このうち内玉垣南御門の左右には「東掖門(わきもん)」と「西掖門」と呼ばれる門がある。(外宮の正宮にはない。内宮の正宮のみ)
御正殿・八咫鏡(天照大御神)の床下に眠るとされる心御柱とは?
御正殿の床下には出雲大社と同じく、心御柱(しんのみはしら)が埋められています。
これは、神の依り代的な役割を果たしていると考えられており、天照大御神の御神体が祀られている床の真下あたりに埋められているそうです。
心御柱が御正殿に埋められている理由
これについては、ハッキリとしたことが判明していないと云われておりますが、有力な意見としては、伊勢神宮の心御柱は天皇を象徴するものだと云われており、天皇を守護し、天皇に国を守護してもらうといった意味合いがあるといいます。
「延喜式(えんぎしき)」の定めによる伊勢神宮の社格
伊勢神宮には「内宮(ないくう)」と「外宮(げくう)」があって、その宮域(境内)に「別宮」や「摂社」などがあるため、それらと区別するために本殿がある御垣の内側を「正宮(しょうぐう)」と呼びます。
その正宮の中で御神体が祀られている殿舎を「御正殿(ごしょうでん)」と呼称し、一般の神社における”本殿”に相当します。
また、伊勢神宮は正式には「神宮」とだけ呼び、これは伊勢神宮の近隣に125個も存在する関係社(神社)を総称した呼称となります。
一方で日本の大神が御座す尊い宮・「神宮」とも言えます。
”神宮”とだけ呼び慣わすことは、なんと!平安時代中期に醍醐天皇の発願によって編集された「延喜式(えんぎしき)」の9巻と10巻にあたる「神名帳」に定められているからです。
つまり、天皇の勅命で決められたと言うことになります。
この「延喜式(神名帳)」の定めでは「伊勢の神宮は社格なし(日本の神宮のため適用外)」とされ、他の神社とは別格に扱いにされています。
神宮と呼ばれた理由は、天照大御神が天皇の祖先神であり、日本国民の総氏神とされているからに他なりません。それだけ尊い存在であるといういうことです。
内宮・御正宮(皇大神宮)の歴史と皇大神宮の創建
「天照大御神」の御神体は「三種の神器」の1つである「八咫鏡(やたのかがみ)」とされています。
この鏡は代々、宮中(御所)でお祀りしていましたが、第10代「崇神天皇(すじんてんのう)」の時代に宮中から出されることになります。
この理由は、当時、国中に疫病が蔓延(まんえん)して飢餓や争いが勃発し、このような悪いことが起こるのは「天照大御神」の祟り(たたり)であると考えられたためです。
その時、宮中では「八咫鏡(やたのかがみ)」の複製品が作られ、実物の「八咫の鏡」が宮殿の外に遷されることになります。
そして、崇神天皇の皇女(娘)である「豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)」によって持ち出され、最初は奈良県の笠縫邑(かさぬいむら)でお祀りされます。
後に豊鍬入姫命から「垂仁天皇(すいにんてんのう)」の皇女(娘)倭姫命へ八咫の鏡をお祀りする任務が引き継がれ、さらに御神体は移動されることになります。
その後、奈良県、滋賀県、岐阜県などを巡り、最後に気候温暖で食物に恵まれ「風光明媚(ふうこうめいび)」なこの伊勢の地にたどり着き、伊勢の国の「五十鈴川(いすずがわ)」の川上に「祠(ほこら)」を建てて大御神をお祀りすることになります。
この祠が現在の「伊勢神宮」の前身となりますが、「神宮」と呼ばれるくらいの規模になったのは7世紀後半(西暦650年から西暦700年)頃だと云われています。
終わりに・・「伊勢神宮が文化遺産(世界遺産)に登録されない理由」
伊勢神宮は、島根県に位置する出雲大社と比較されることが多いです。
比較される理由としては、同様の歴史を持つ社であり、謎に包まれた過去があるからに他なりません。
しかし、同様の古い歴史を持つ社でもあるにも関わらず、出雲大社の境内の社殿群は文化遺産に登録されているのも数多く存在します。
一方の伊勢神宮宮域の社殿群は文化遺産に登録されている社殿がありません。常に社殿が綺麗で整っている印象を受けます。
これは伊勢神宮には約20年ごとに執行する「遷宮(せんぐう)」の習わしがあり、社殿の一切を新品に造り変えてしまうためです。
文化遺産登録のための条件の一つに「歴史的建造物である事」というものがあります。
つまり、伊勢神宮は遷宮を行って社殿を新造してしまうため、文化財登録の条件に当てハマらないことになります。
近年では、伊勢市が伊勢神宮を世界遺産へ登録させる動きも見受けられますが、遷宮が踏襲される限り、世界遺産はおろか文化遺産にも登録できないのが現状です。非常に残念なところでもあります。
しかし我々、日本人の国民一人一人の心にしっかりと「お伊勢参り」という伝承が今も息づいており、この伝承は歴史から消え去ることはなく、世代を超えて語り継がれるのものです。
これこそが何よりの本当に偉大な文化遺産と呼べるものではないでしょうか。
【参考】遷宮1回分で使用する木材量と用意する敷地の大きさ
- 用意する敷地の広さ:約1万立方メートル(東京ドーム約3倍)
- 使用される木材の量:約10,000本
- 使用木材:直径1.4mの樹齢500年ほどの巨木(ほぼヒノキ)
- 遷宮総費用:約550億円