この項では三種の神器の歴史や起源についてと、三種の神器がある本当の場所や真贋(本物か偽物か)について述べています。
まず・・「三種の神器」とは?
「三種の神器」とは「さんしゅのじんぎ」もしくは「みくさのかんだから」とも読み、これは皇位の象徴とされる「鏡」、「玉」、「剣」のことです。
しかしただ単に皇位の象徴ではなく、厳密には「支配者を示す道具」と捉えるのが正しいのかもしれません。
これらは「八咫鏡(やたのかがみ)」、「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」、「草那芸剣(くさなぎのつるぎ)」などと呼ばれています。
三種の神器は太陽・月・武力を示す神宝?
一説では、「鏡は”太陽”」、「玉は”月”」、「剣は武威」を示すとも云われます。
これらは下記の三貴子から連想されたものだと位置付けることもできます。
三種の神器は三貴子をも示す?
その他の説では三種の神器で「三貴子」を示しているとも云われます。
- 鏡は「天照大御神」
- 勾玉は「月読尊(月夜見尊)」
- 剣は「スサノオ(素盞嗚尊)」
「三貴子」とは「さんきし」や「みはしらのうずのみこ」と読み、これは上記、3柱の神のこと示します。
意味としては、『幾多の神の中でももっとも尊い存在である』ことから「三貴子」と呼ばれています。
現在、三種の神器は皇位継承者としての証のようなものですが、古代では自らの権威や権力を示すためのシンボルとなるものでした。
実際、古代の王族の墓を掘れば鏡や剣、玉が出土してくるものです。
項・一覧
三種の神器の起源
鏡と勾玉は天照大御神の天岩戸隠れの際に作られたのが起源!
三種の神器のうち、勾玉と鏡に関しては天照大御神の天岩戸の中に隠れた際、天岩戸の周囲に参集した神々の手により、作り出されたのが三種の神器の起源とされています。
天岩戸隠れの神話は次の通りです。
天岩戸隠れの神話
これは神話の時代のお話です。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟神である須佐之男命(すさのおのみこと)は、天界の田んぼや宮殿を荒らし、乱暴を働きました。
それを知った大御神は、怒り悲み「天岩屋戸(あまのいわやと/天岩戸)」に引きこもってしまいます。
すると全ての世界が真っ暗闇になり、様々な災いが起こりました。
神々は何とか、天照大御神に天岩屋戸から出てきて頂こうと天岩屋戸の前に参集し、会議を開くことになります。
そして、この会議の末、次のようなアイディアが神々から考え出されます。
- 思兼神(おもいかね):「ニワトリ岩戸の前で長く鳴かせよう」
- 手力雄神:「岩戸の前に立って天照大御神を力ずくで引っ張り出そう」
- 玉祖命(たまのおやのみこと):「勾玉(八坂瓊之五百箇御統/やさかにのいほつみすまる)」を作ろう。
- 伊斯許理度売尊(いしこりどめのみこと):鏡を作ろう。
- 太玉命(ふとだまのみこと):「天香山(あめのかぐやま)にて榊(さかき)を取ってきて、上の枝には「勾玉(八坂瓊之五百箇御統/やさかにのいほつみすまる)」、中の枝には八咫鏡、下の枝には青色の布を白色の布を引っ掛けて祈祷をしよう」
- 天鈿女命(あめのうずめのみこと):上半身素っ裸になって激しく乳をゆさぶり、とにかく気が狂ったように激しく乳をゆさぶりながら、とにかく激しく乳をゆさぶり踊ろう。
まず、思兼神がニワトリを「コぅぉ〜ケぇぇ〜〜コぉ〜〜ッ〜〜コぅ〜〜ぉ〜くぅぉ〜〜〜」と鳴きじゃかせることからスタートします。
次いで、玉祖命が勾玉を作り、鏡を伊斯許理度売尊という老婆神が作り、最後にそれを太玉命が手持った榊の枝に引っ掛けます。太玉命は祝詞を唱えて祈祷をはじめます。
最後に天鈿女命が激しく乳をゆさぶりながら、とにかく狂ったように乳をゆさぶり踊り狂い、それを見た神々は大笑いします。
外の様子が騒がしいことが気になった天照大御神はこう告げます。
「外の世界は私がいなくなって暗闇に閉ざされたハズ。なのに神々は大笑いし、天鈿女は乳を激しくゆさぶるほど激しく乳をゆさぶりながら踊っている。なぜなのか?」
そこで天鈿女命が激しく乳をゆさぶることを中断することなく、こう答えるのです。
「奇しくも貴方様より、偉大な神が現れたのです。これが乳をゆさぶるほど激しく踊らずにおられましょうか」
そして、ついに大御神は岩戸を少し開けてしまうのです。
このとき伊斯許理度売尊が用意した鏡に自らの姿が映るのですが、自分の姿を知らなかった天照大御神は「これが天鈿女命の申した神なのか・・」と勘違いし、鏡に映った自分の姿を見るために岩戸をさらに少し開いてしまうのです。
その瞬間をここぞとばかりに待ち構えていた手力雄神が思兼神の「今じゃ!」の掛け声と共に天照大御神の手をとって引きずりだすことに成功します。
以上のように、天照大御神に天岩屋戸から出てきてもらう方法の1つとして作られたのが「玉(八尺瓊勾玉/やさかにのまがたま)」と「鏡(八咫鏡/やたのかがみ)」です。
後、これらの神器は天照大御神が天岩戸から出た後、天孫ニニギに授けられ、天孫降臨にて地上へもたらされることになります。
剣はヤマタノオロチの体内にあったもの
ヤマタノオロチとは8つの頭を持つ大蛇のことです。(山の神とも)上記、天岩戸隠れのキッカケとなった事件がスサノオが天界で大暴れしたことですが、この後、天界を守護する天照大御神は弟神・スサノオを地上へ追放してしまいます。
スサノオが偶然降り立った地が出雲と島根の県境。当時、この県境にはヤマタノオロチという大蛇が、地域に住む人々の中からピチピチとした娘っ子を生贄にとって食べていたとの話を耳にするのです。
そして自らもピチピチとした娘っ子とピチピチしたいとの思いが激しく脳天を刺激し、愛刀「十握剣(とつかのつるぎ)」を帯刀して、ヤマタノオロチを退治しに行くわけです。ピチピチ?
その後、ヤマタノオロチを討つことに成功するのですが、ヤマタノオロチの8つ首を切り落とし、最後に尾を切り落とした時に出てきたのが「草薙の剣」です。
ただし、「草薙」という名前を付したのは日本武尊であり、このときスサノオはこの剣に「天叢雲剣(あめのむらくも)」と名付けています。
その後、自らの愛刀を刃こぼれさせたほどの剣ということで、姉の天照大御神へ献上することで天界へ戻してもらおうと画策し、天照大御神へ献上するのです。
まとめると剣はヤマタノオロチの体内にあったもので、それをスサノオが手に入れて「天叢雲剣」と名前を付けて天界へ昇って天照大御神へ献上する。
後、天孫降臨のときに天照大御神は孫神の瓊瓊杵尊へ鏡、勾玉、剣を渡し、三種の神器は地上へ降ろされることになる。(以来、天界へ三種の神器が戻ることはない)
以上、これが草薙の剣の起源になるのですが、剣だけは作られたものではなく、ヤマタノオロチという大蛇の体内から出てきたという点が、鏡と勾玉とは大きく異なっていることが分かります。
えぇっ?!三種の神器はかつて「二種の神器」だった?!
現在までの学術調査によれば三種の神器は元来、「三種」ではなく「2種」だった可能性が指摘されており、おおむね「二種の神器」説が濃厚とされています。
理由は元来、「神器」とは中国の道教の思想に依るものであり、これが日本における神器の起源とされているからです。
道教は、およそ4世紀(西暦301年から西暦400年)の間に中国から日本へもたらされた思想であり、宗教のことです。
実際に以下のような証拠となるような勾玉に関しての記載のない文面も残されています。
含象剣鑑図
含象剣鑑図(がんしょうけんかんず)の「含象」とは、森羅万象を包含(ほうがん/つつみこんで中に含むこと)するという意味合いがあります。
「鑑」は察しのとおり、「鏡」のことです。
この含象剣鑑図の作者である、中国・唐の道教の指導者「司馬承禎(しば しょうてい)」は以下のような言葉を残しています。
『鏡と剣こそが全宇宙のすがたを象徴するものであり、地上においては帝王たる権威・権力の象徴となりうるものである』
陶 弘景著「真誥」
6世紀の中国「梁」の道教の道士「陶 弘景(とう こうけい)」が著したとされる古書物「真誥(しんこう)」には以下のような記述が見られます。
『鏡と剣は宇宙の最高神の権威や権力のシンボルであり、宗教的な霊力を持つ』
継体天皇紀
継体天皇紀とは古墳時代の第26代「継体天皇(けいたいてんのう)」について書かれた古書物ですが、以下のような記述が残されています。
『大伴金村大連、乃ち、ひざまづきて天の鏡と剣の璽符(みしるし)を上りてまつる』
この文中にも「勾玉」のことが書かれていません。
宣化天皇紀
宣化天皇紀とは古墳時代の第28代「宣化天皇(せんかてんのう)」について書かれた古書物ですが、同様に以下のような記述が残されています。
『天皇の即位に鏡と剣をもちひて・・』
この文中にも「勾玉」のことが書かれていません。
持統天皇紀
持統天皇紀とは飛鳥時代の第41代「持統天皇(じとうてんのう)」について書かれた古書物ですが、同様に以下のような記述が残されています。
『忌部宿禰色夫知(いんべのすくねのしこぶち)、神璽の剣鏡を皇后に奉上り、皇后天皇の位に即く」
忌部宿禰色夫知とは、飛鳥時代の朝臣で690年に上記の持統天皇が夫である天武天皇のあとを継いで、女性天皇として剣と鏡を継承し、天皇の位に就いたことを証明する一文です。
忌部宿禰色夫知は672年の壬申の乱の際、天武天皇に味方し、勝利に導いた人物でもあります。
以上は、あくまで例ですが、他にもまだこのような文面が残されています。
二種の神器から三種の神器に変わったのはいつ頃なのか?
三種から二種になった時期としては奈良時代後半〜平安時代に勾玉が取り入れられ、三種に定められたと考えられています。
一説には天武天皇・持統天皇が神器を三種にしたとも云われます。
現在までの調査によれば当初は忌部氏が朝廷の祭事(神事)を取り仕切っていましたが、やがて中臣氏の朝廷においての発言力を増してくると中臣氏が朝廷の祭事を取り仕切るようになります。
中臣氏とはすなわち、藤原氏のことです。
757年(天平宝字元年)5月に「藤原仲麻呂」によって制定された「養老律令(ようろうりつりょう)」の中の「神祇令(じんぎりょう)」によれば、『凡そ践祚(せんそ)の日には、中臣、天神の寿詞奏せよ。忌部は神璽の鏡剣を上れ(たてまつれ)』
との記述が見られます。
ここでも「勾玉」の存在はないのですが、注目すべきは「寿詞奏」という言葉です。
これの意味を紐解けば、『中臣は寿詞(よごと)と読み、これは天皇を寿ばせる(よろこばせる)詞(言葉)を奏上せよ(献上せよ)』
『忌部は神鏡と神剣をたてまつれ』
という意味合いになります。
これを後世では「中臣寿詞(なかとみのよごと)」とも呼称しますが、古代日本においては天皇の即位式および大嘗祭において奏上された公式的な意味合いを持つ寿詞になります。
すなわち、中臣氏がすでに忌部氏よりも天皇のお傍近くにあって、天皇から直接、意見を求められるような距離の近い存在であったことを意味しています。
このように中臣氏が朝廷の祭事を取り仕切るようになってからは「勾玉」が用いられるようになり、ここで現在のような「三種の神器」になったとされる説がもっとも有力視されています。
中臣氏が神器を3種にした理由とは?
中臣氏は鎌足を始祖とする一族であり、京都山科を拠点に栄華を極めた一族です。のちに天智天皇より「藤原」の名前を賜り、以降、天子を傀儡化して朝廷を牛耳り、天下をいのままに操るようになります。
そもそもの中臣氏の起源とは朝鮮「百済」の一族と云われ、百済から渡来してきて山科に住み着いたとされています。
すなわち、中臣氏が執り行う祭事の方法は朝鮮式であり、ここで朝鮮式に勾玉が持ち込まれたとされる説が有力視されています。
以後、現在に至るまでこの中臣氏の祭事方法が踏襲され、三種の神器を用いた儀礼が執り行われていることになります。
八咫鏡の歴史・由来
八咫鏡は、現在、伊勢神宮・内宮の御正宮・御正殿で祀られている神鏡です。日本書紀においては別名で「真経津鏡(まふつのかがみ)」とも書かれます。
その姿は誰も見たものがないと伝えられており、歴代の天皇すらみたことがないとのことです。
八咫鏡の「咫」とは、ものを測る単位で「一咫」は、およそ手のひらのサイズを示します。(厳密には親指〜中指を広げた長さとも)
これが8つ分あるサイズの鏡ということになりますが、残念ながらこれだと大きくなりすぎてしまいます。
現在に至っては「当時の円周率を咫で示したから8咫だ」という意見もあれば、単に『八は「大きい」「多い」の意味がある』などの意見もあり、なかなか判然としないような状況です。
八咫鏡は誰が作った?「八咫鏡の作者」とは?
このような伝説的で神秘に満ちた鏡が現存していて、誰も見たことがないとなれば疑問が湧かない人はいないでしょう。
八咫鏡は天照大御神が天岩戸にこもった際、伊斯許理度売尊(いしこりどめのみこと)が高天原で作ったとされています。
「いしこりどめ」とは、変わった名前ですが、これは『石の鋳型を用いて鏡を製作する老女』との意味合いをもちます。
ただ、記紀の記述には「造らせた」とあり、これを命令した人物が他にいることになりますが、神話上で考察すれば参集した神々の一致相違の意見でしょう。
神話ではその後、岩戸から出た天照大御神の下命により、天孫ニニギの降臨(天孫降臨)に随従し、「五伴緒(いつとものお/ニニギと共に地上へ降った5柱の神のこと)」の1柱として地上(高千穂)へ降っています。
随従した五部神
- 瓊瓊杵尊
- 伊斯許理度売尊
- 天児屋命
- 太玉命
- 天鈿女命
地上へ降った後、伊斯許理度売尊は子孫を残し、子孫は「鏡作(連)」という名前を賜っています。このことから鏡作連(かがみつくりのむらじ)の始祖とも云われます。
鏡作連とは、いわゆる大和朝廷や貴族の鏡を作った一族です。
ただ、これらはあくまでも神話であり、現実に話を戻せば作者がいて、製作した場所があります。
これらを学術的に考察した結果、三種の神器はすべて「和製(日本製)」であると考えられています。
和製である理由は、神器を持つ天皇の存在が唯一無二なれば、その神器も唯一無二の存在でなければならなかったからです。
すなわち、誰も真似できないような特注仕様で作られたのが三種の神器です。
かくして天界から地上へもたらされた八咫鏡
天照大御神は「八咫鏡を自らを遷した魂だと思い、共に床を同じくして殿を共に、いつき奉れ」と天孫ニニギに伝えています。
ニニギはそれを守り、以来、天皇と神器は同床共殿(どうしょうきょうでん/寝室に置き肌身近くに置く)形式で祀ることが定められています。
八咫鏡の形「重量や長さとは?」
考古学者「原田大六」氏によれば、内宮で奉斎される八咫鏡の形は、1965年(昭和40年)に福岡県 平原遺跡から出土した直径約46.5㎝の「内行花文八葉鏡(ないこうかもんはちようきょう)」と同じ鋳型で鋳造されたと同形の青銅鏡だと推定しています。
原田氏によれば『神道五部書』の記述にある『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記・八咫鏡』の項にて、「八頭花崎八葉形」と図象が類似していることを指摘。
さらに『延喜式・伊勢大神宮式」および「皇太神宮儀式帳」の記述に見られる鏡を納めるための入れ物の内径が「一尺六寸三分」(約49㎝)であることから、この青銅鏡を内宮・御正宮/御正殿で奉斎されている八咫鏡と同じ鋳型で鋳造したと推定しています。
ちなみに内宮に安置される神鏡の裏側には「ヘブライ語」の文字が刻まれていて、これを訳せば世界をひっくり返すくらいのとんでもないことが書かれているという俗説もあるようです。
八咫鏡の大きさ(長さ)
「八咫(やあた)」とは古代日本で用いられた長さを示す単位であり、一咫は手の平の大きさと等しいと云われます。
八咫鏡の場合は「八=8」なので八咫になりますが、これだと100㎝を超えてしまうことになり、定説の直径46.5㎝説と間に矛盾が生じるのですが、実はこれに関しては150㎝の鏡が実在したという説があります。
過去、内宮が火事で焼けた際、当初の150cm神鏡は焼けてしまい、新しく作られた神鏡が上記の50cmの神鏡であると言った説もあります。
ここまでで察しの良い方なら気付いたと思いますが、仮に八咫鏡が直径約50㎝近いとしても、当時では類を見ないほど大型の鏡だったハズです。
鏡を大型にした理由は、上述したように”唯一無二にする必要があったから”です。
だとすれば150㎝の鏡が作られていてもおかしくはないことになります。
八咫鏡の重さ
下記でも言及しているのですが、実は現在の皇居の宮中三殿と呼ばれる場所の中央殿「賢所(かしこどころ)」には八咫鏡が奉安されています。
驚くのがその重量で、なんと!200Kgを優に超えるとのことです。
これは皇居警察による皇居の避難訓練で判明した事実なのですが、いざ有事の際は1つを6人がかりで持ち出すことになっているそうです。
これが事実だとするならば神宮の内宮で奉斎されているオリジナル(八咫鏡)も同様の重量があっても不思議ではないことになります。
まさに唯一無二の鏡だと言えるでしょう。
えぇっ?!八咫鏡には偽物がある??
上記で少し触れましたが、実は八咫鏡には本物を模して作られた「形代(かたしろ)」と呼ばれるレプリカ(偽物)の鏡があります。
「形代」とは御神霊を遷して御神体としたものなので、単純に「偽物」とは言い難いものがあります。(学術的にはレプリカ)
このレプリカの鏡は現在、皇居の宮中三殿の中の真ん中の社殿となる「賢所(かしこどころ)」、通称「賢所(けんしょ)」に奉安されています。
宮中三殿
- 賢所(かしこどころ)※中央
- 皇霊殿(こうれいでん)※西側
- 神殿(しんでん)※東側
具体的には、賢所の中は内々陣・内陣・外陣で構成されており、内々陣の「一の御座(いちのみくら)」と、向かってその右脇に「二の御座(にのみくら)」の中央にそれぞれ唐櫃(からびつ)が置かれており、そのうち、一の御座の唐櫃の中に奉安されています。
八咫鏡の祀られ方
前項で触れたように、高さ約90㎝、縦横約80㎝の「唐櫃(からびつ)」と呼ばれる4脚付きの箱の中に奉安されており、箱にはヒモが縦に巻かれて(搦められて)います。
このヒモ、実は重要なヒモで、天皇が即位した都度、直接お手で架け替えるヒモであり、これを「お搦めの神事」と呼ぶそうです。
お搦めの神事とは、現在に至っては由緒が不明になっているとのことですが、いわゆる「封」する儀式だと推察されています。
八咫鏡がある場所
本物は伊勢神宮 内宮の御正宮・御正殿の中
八咫鏡は現在、伊勢神宮内宮・御正宮/御正殿の中で奉斎されています。
伊勢神宮の神職、および宮司ですら、その姿を見た者はいないとのことです。
形代(レプリカ)は宮中三殿の賢所
前述したように宮中三殿・賢所の内々陣にて唐櫃の中に奉安されています。
ちなみに賢所には「掌典(しょうてん)」と呼ばれる男性職と、「内掌典(ないしょうてん)」と呼ばれる女性職によって24時間体制で護られています。
このうち内掌典は古式に則って奉仕すると言われ、言葉遣いや所作、髪型・服装に至るまで、まるで平安時代の宮中の女官さながらの規律が設けられています。
ただ、皇居の八咫鏡は、過去、宮中の内裏(だいり)からの失火によって、960年(天徳4年)、980年(天元3年)、1005年(寛弘2年)の3度に渡って火災に見舞われ、現在では神鏡としての形を留めていないとも云われます。
なお、賢所は宮中三殿しいては皇居の中でもっとも尊い場所とされ、その設計は室町時代の神道家「吉田兼倶(よしだかねとも)」が設計したものをそのまま踏襲しているとのことです。
草薙の剣の歴史・由来
唯一、天照大御神の天岩戸神話に登場しない神器が「剣」であり、すなわち「草薙神剣」です。
草薙の剣の別名・別表記
- 草那藝之大刀(くさなぎのたち)
- 草那芸剣(くさなぎのつるぎ)
- 天叢雲剣(あめのくらくものつるぎ)
- 都牟刈大刀(つむがりのたち)
- 都牟刈の大刀(つむはのたち)
上述、天岩屋戸の事件で、須佐之男命は天照大御神に天界から地上へ追放されますが、地上に降りた須佐之男命は、嘆き悲しんでいる老夫婦と1人のピチピチとした娘っ子に出会うことになります。
この老夫婦は嘆き悲しみながら須佐之男命にこう告げました。
「毎年、8つの頭をもつヤマタノオロチと称する大蛇が、やってきよる・・」
「・・すでに7人もの娘をさらわれてしまったんじゃ。」
「そして、今年は末娘までを捧げなければならないのじゃ」
須佐之男命は、この親子を助けるため大蛇を退治する決心をします。
そして、現在の八重垣神社の裏山に8つ酒樽を用意し、8つ首それぞれに酒を飲ませて泥酔させることに成功したスサノオは、ブツブツと泥酔して寝ているヤマタノオロチの首を切り取り、見事!討ち果たすことに成功するのです。
このとき須佐之男命はヤマタノオロチの頭と尾を切り落とすのですが、尾を切ろうしたとき、突如、手持った剣(神話では”十拳剣/とつかのつるぎ”)の刃が欠けて「あるモノ」が出てくるのです。
その「あるモノ」とは「剣」です。
この剣はスサノオノミコトによって「天叢雲剣(あめのむらくも)」と命名されるのですが、この剣、不幸なのか幸いなのか、持ち主がコロコロと変わり、激動の人生を送ることになります。
まず、スサノオノミコトから→天照大御神へ献上され、さらに天照大御神→瓊瓊杵尊→倭姫命→日本武尊へと持ち主が推移していきます。
神話では、日本武尊によって「草薙剣(クサナギノつるぎ)」と命名されていることになっていますが、日本武尊は奇しくも草薙剣を愛しのラブリー(訳:嫁)・「宮簀媛(ミヤズヒメ)」に預けて遠征に赴き、伊勢国・能褒野で命を散らしてしまいます。
この後、宮簀媛は草薙剣を神剣として祀ることを決意し、熱田社(熱田神宮)を創建することになります。
草薙の剣がある場所
草薙の剣は現在、公式的には2本存在し、それぞれ以下の場所で奉安されています。
熱田神宮・本宮の本殿
熱田神宮の本宮・本殿は拝殿・幣殿などを挟んだそのまた向こうにあります。
皇居の宮中三殿「剣璽の間」
剣璽の間(けんじのま)は天皇皇后両陛下の寝室の隣に設けられた部屋であり、ここに勾玉と共に奉安されています。
草薙の剣と八尺瓊勾玉は「剣璽御動座」といって宮中における以下のような祭礼の時にこの剣璽の間から持ち出され、儀式に使用されます。
剣と勾玉が持ち出される儀式一覧
- 剣璽等承継の儀(一例:2019年5月1日)
- 即位礼正殿の儀(一例:2019年10月22日)
- 大嘗祭(一例:2019年11月14日/15日)
「剣璽」の剣とは「草薙の剣」のことであり、「璽とは八尺瓊勾玉」のことです。
八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
八尺瓊勾玉の別名
- 八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)
- 八尺勾玉(やさかのまがたま)
- 八尺勾璁之五百津之美須麻流珠(やさかのまがたまのいほつのみすまるのたま)※古事記
「やさか」は「弥栄」いわゆる繁栄を意味し、八は「大きい」「多い」、「瓊」は「けい」と読み、これは赤色の瑪瑙を意味します。(参考文献:諸橋轍次「大漢和」)
また、「坂」は一杖(ひとつえ)=「約3mの10分の1」のことを意味するとされています。
これらを総じてまとめると「特別大サイズの赤色の瑪瑙の勾玉」というように解釈されます。
勾玉の表現の違い
勾玉は記紀においてそれぞれ表現が異なっています。
- 日本書紀:曲玉
- 古事記:勾玉
「勾」という字は「まがる」とも読みます。勾玉の「勾」の字体は縁起の悪い意味を持つ字体とされており、特に「ム」の部分が骨の屈折を意味するなど、これはすなわち「人の死骸を意味する」とも云われます。
勾玉の起源は日本!「日本独自の文化」
勾玉は日本で生み出された日本独自の形状をしたものです。形状の由来に関しては以下のような説が述べられています。
- 「生命」を表現した魂の形
- 母ジャ(訳:母親)のお腹の中にいる赤子を表現した
勾玉の定型
実は勾玉には基本形となる型があります。これを「C字型」と呼称します。
このC字型の端の部分に紐を通す穴ボコが空いているのが特徴です。
穴ボコが空いている部分は「頭」と呼ばれ、もっとも太くなっています。また、C型の内側部分を「腹」と呼称し、外側部分を「背」と呼称します。
勾玉の大きさ
現在、出土している勾玉の長さでは石上神宮に奉安される勾玉が最大とされており、5.3㎝、最小サイズで1.8㎝になり、いずれも古墳時代の勾玉と推測されています。
なお、宮中三殿の賢所に奉安される八尺瓊勾玉の形代(かたしろ/レプリカ)は人の子供の頭ほどの大きさがあるとされ、重さもそれに等しいくらいあると推定されています。
勾玉の起源
勾玉の起源は縄文時代にまで遡ります。
この当時九州北西部の玄界灘に臨む平野部で作られ始めていまが、当時の勾玉は鉱石ではなく「ガラス」で制作されており、調査の結果、中国産のガラスであることが明らかにされています。
ここから導き出される答えは当時、大陸のガラスと同様の材料を使用し、すべて1つの型をモチーフとして量産した可能性が示唆されています。
以後、弥生時代になると、現在の新潟県糸魚川流域にて高純度の翡翠(ひすい)が採取されるようになり、朝鮮および中国などに輸出するための鉱石を用いた勾玉も作られはじめます。
勾玉の形状は時代判定できる
勾玉の形状は作られ始めた当初から、形が変わっていると伝えられています。
当初は冒頭で少し触れたように赤子(胎児)がモチーフとされましたが、やがて巴の図象が取り入れられ始めており、頭と尾となる部分の大きさに差異が生まれるなど、つまりは形状で時代判定ができることになります。
八尺瓊勾玉が保管されている場所
皇居の「剣璽の間(けんじのま)」
八尺瓊勾玉は天孫降臨以来、宮中のから動くことなく奉安されています。
現在は草薙剣の形代(レプリカ)と共に剣璽の間に安置されています。
この世に存在する公式的な数は1つです。
それで三種の神器の保管場所「本当の保管場所はいったいどこ?」
天照大御神は「大国主神(おおくにぬしのかみ)」から地上の国を譲り受け、その地を孫の「邇邇芸命(ニニギノミコト)」に治めるように指示します。
この時、「邇邇芸命(ニニギノミコト)」は、天照大御神から三種の神器を授けられます。
諸説ありますが、この「ニニギノミコト」の孫が「初代天皇」と言われている神武天皇です。
それ以来、皇室で受け継がれますが、時の経過とともに、三種の神器の行方は変わっていきます。
八咫鏡
「八咫鏡(ヤタノかがみ)」は、崇神天皇(すじんてんのう)の時に複製品が作られ、実物は伊勢神宮に祀られて、複製品が宮中に保管されたと言われています。
複製品は1度火事で焼失していますが、再度作られたようです。
草薙の剣
「クサナギノ剣」は、景行天皇(けいこうてんのう)の時代に、東国の制圧に向かう「日本武尊(やまとたけるのみこと)」に与えられました。
後に武尊が、現在の滋賀県の遠征の際、毒をもらいその毒が災いして亡くなります。
以後、この剣を祀るために「熱田神宮」が建てられて、そこに御神体として祀られました。
後に、熱田神宮から宮中へ持ち出され、壇ノ浦の戦いで海に沈んだと伝えられていますが、この時沈んだ剣は複製された草薙の剣だと伝えられています。
このため、再度、複製が作られ、現在は熱田神宮の本宮で安置されています。
八尺瓊勾玉
「ヤサカニノ勾玉」は、複製品を作ったという記録はなく、実物が「宮中」にあり、それが代々、引き継がれてきたと言われています。
現在、「ヤサカニノ勾玉」は「クサナギノ剣」「八咫鏡」の複製品とともに、皇居の「新吹上御所(しんふきあげごしょ)」にある「剣璽の間(けんじのま)」にて安置されていると云われております。
以上をまとめると、三種の神器は、次の場所にあるようです。
- 「八咫鏡(ヤタノかがみ)」・・・・・伊勢神宮(複製品は皇居)
- 「草薙の剣(クサナギの剣)」・・・熱田神宮(複製品は皇居)
- 「八尺瓊勾玉(ヤサカニノまがたま)」・・皇居
但し、三種の神器は天皇でさえも見ることを許されていないため、真贋は判らないというのが本当のところです。
つまり、熱田神宮にある草薙の剣や、皇居にあると言われている八尺瓊勾玉、八咫鏡があると言われている伊勢神宮、これらの三種の神器自体が、実は本物とは程遠いニセモノであり、本物の三種の神器は、まだ、いずこかの他の場所にあるかも知れないと可能性もあると言うことです。
ましてや遠い遠い過去のことです。誰も知る由もなく、事実が分からないので本物かどうかも分からないといったことになります。
このように考えると、時代を超越したロマンが広がり、考えるだけでも楽しくなると言うものです。
八咫鏡を含めた三種の神器が皇居外に祀られるということは深い意味合いをもつ
このように八咫鏡をはじめとした三種の神器が皇居外で奉斎されることは、大御神の広大無辺なる御神徳を日本国民すべてが享受できるということを意味し、同時に天皇主権の国家として天皇を中心とした理想の国づくりを国民それぞれが一致団結して創造していくということです。
これらの事は「神宮祭祀の本義」において、天照大御神がご神勅によって明瞭に示されていると説いています。
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