質問!どうして歴代天皇家は伊勢神宮に参詣しないのか?

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質問!どうして歴代天皇家は伊勢神宮に参詣しないのか?

質問!どうして歴代天皇家は伊勢神宮に参詣しないのか?天照大御神(あまてらすおおみのかみ)は、皇室の祖先の神様と言われていますが、近代の明治天皇まで、天皇みずからが伊勢神宮に参拝したという記録は残っていません。

遠い昔のことなのでハッキリしたことは判らないと思いますが、まずは伊勢神宮と天皇の関係から述べます。

天皇が伊勢神宮に参拝しなかった3つの理由

実は古来から伊勢神宮は天皇のために作られた神社で、一般の人は参拝できませんでした。

一般人が個人的な願い事をすることもゆるされていません

これは元来、伊勢神宮が「私幣禁断(しへいきんだん)」という大原則があり、天皇以外のお供え物や願い事が禁じられていたためです。

「幣」とは、昔の価値を物で表した時、「紙や麻、木綿」などを意味します。

伊勢神宮は創建以来、何故か天皇が直接、参拝せずに、その使者である「勅使(ちょくし)」が天皇に成り代わって参拝しています。

以降、明治天皇が参拝するまで、天皇は参拝しなかったと云われています。

しかしいったい何故、天皇が参拝しなかったのでしょうか。

本当の理由は判っていませんが、想定されている説を3つ紹介します。

天皇が伊勢神宮に参拝しなかった理由【その1】「鏡に宿る神(天照大御神)の魂を恐れているため」

明治天皇以前の天皇は、八咫鏡に宿る「天照大御神の御霊」を、心底、恐れていたと云われています。

この理由は、例えば崇神天皇(すじんてんのう)の時代となる崇神天皇5年(紀元前150年頃)には疫病が蔓延し、これに乗じて人心が乱れ、反乱が勃発するなど不安定な時代でした。

この時、崇神天皇は国が乱れた原因が天照大御神の御霊が宿る八咫鏡の呪いだと決めつけてしまい、八咫鏡を宮中から宮外へ持ち出すように命令を下します。

以降、持ち出された八咫鏡は日本各地を練り歩くことになり、最終的に伊勢の地に鎮まることになります。(後述)

以上のような理由があったため、天皇自らが参拝するのではなく、心も体も清められた「斎王(さいおう)」を血縁から選出し、その斎王にお祀りを委ねて、これを制度化して、八咫鏡を代々の斎王が祭祀(=おまつり)するようにしています。

尚、「斎王」とは、別名で「御杖代(みつえしろ)」と呼称し、神の依代となって、神の意を伝える任務に就く人物のことを指します。

つまり、伊勢神宮における斎王とは、すなわち、天照大御神の御霊が宿る「八咫鏡を祀る任務を担う役職」のことを意味します。

天皇が伊勢神宮に参拝しなかった理由【その】「財政的な理由」

都(京都)と伊勢神宮は現代のような便利な交通網はありませんでした。

「斎王」が伊勢神宮に向かう時でさえ、100人のお供を従えて、何日もかけて行列で向かわなければなりませんでした。

もし、天皇が参拝するとなると、どれだけの費用が掛かったか想像もつきません。

また、天皇といえども、絶対的な権力者ではなく、その時々の将軍等と歩調を合わせる必要がありました。

特に織田信長公による、天皇が御座する「御所の宮殿」の修復時には、老朽化によって雨漏りまでしていたようです。

つまり、財政的な問題で、天皇の参拝はしなかったのではないかという説です。

以上のような2つの説が現在までに考えられております。

但し、宮内庁からの明確な記録の開示はありませんので、想像は膨らんでしまいますが、本当の理由は不明です。

天皇が伊勢神宮に参拝しなかった理由【その3】「畏れ多きモノほど遠ざける」

まだ八咫の鏡、つまり、天照大御神が、宮中(皇居)でお祀りされていた頃も、現在と変わらず神様の存在が尊い存在として篤い崇敬が寄せられていました。

八咫の鏡が祀られていた当時、実は宮中で他にもう一柱、別の神様も祭祀されていましたが(後述)、歴代の天皇はいつも自らの身近に神様の御霊がお宿りする神器があることを畏れ多きことだと考えていました。

以上のような理由があり、神器を宮中から持ち出して神器を祀るためだけの社殿となる施設を造営し、大切にお祀りしようとしたために宮外へ持ち出す命令を下したとも考えられています。

【補足】天皇が八咫鏡に宿る天照大御神を恐れた理由とは?

災いを巻き起こし、忌み嫌われたとされる「八咫鏡」

※写真はイメージです。

天照大御神から、授けられたお鏡(八咫鏡)は、天皇と同じ御殿で祀るように命じられていました。

そのため、皇居内で祀られていましたが、上述したように「第10代の崇神(すじん)天皇」の時代に疫病が流行り(はやり)、大勢の死者が出てしまいました。

そこで崇神天皇は「神の祟り」だと、周囲にわめき散らして、ノイローゼに陥ったと言われています。

こんな騒動もあり、当時では、八咫鏡のせいなのではないか?・・という噂が流れました。

そして、ついに気が動転した崇神天皇は、ある手段に出ます。

その手段とは・・なんと!

崇神天皇は天照大御神の魂ともいうべき「お鏡(八咫鏡)」を、宮中(皇居)の外に出してしまったのです。

持ち出された八咫鏡の行方

皇居を出された「八咫鏡」は、崇神天皇の皇女(娘)である「豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)」によって、「大和の国(現在の奈良県桜井市)の村(笠縫邑/笠縫村/かさぬいむら)」祀られました。

この時、笠縫村では「磯堅城の神籬(しかたきのひもろぎ)」と言う、社殿のような祭壇を設けて八咫鏡をお祀りしたと云われています。

ちなみにこの時、磯堅城の神籬が造営された場所こそが、現在の大神神社(おおみわじんじゃ)の摂社「檜原神社(ひばらじんじゃ/奈良県桜井市三輪)」の辺りではないかと云われています。

尚、紀(日本書紀)によれば、実はこの時、宮中では天照大御神以外にも、もう一柱、別の神様が祀られていました。

どんな神様が祀られていたのか、想像できますでしょうか?

ちょっと考えてみてください。

・・

・・・

残念無念~!ハズレです。

正解は、「倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)」と称する神様になります。

倭大国魂神は崇神天皇の皇女である「渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)」によって宮中から持ち出され、穴磯邑(あなしむら/現在の奈良県桜井市)で祀られたと伝えられています。

 

それから、しばらく時が流れて、次の天皇である第11代の「垂仁(すいにん)天皇」の代になると、八咫鏡をお祀りするお役目の交代の時期が到来します。

そして次に八咫鏡をお祀りする役目、つまり斎王(さいおう)に選ばれたのが、垂仁天皇の皇女である「倭姫命(やまとひめのみこと)」です。

この時、同時に「斎王」、つまり、お鏡(八咫鏡)のお世話をする(お祀りする)任務が、前代の「豊鍬入姫命」より、倭姫命へ引き継がれたことになります。

倭姫命は、笠縫村から、滋賀県、岐阜県などを巡り、天照大御神が、お鎮まりになるのにふさわしい土地を探して諸国を巡りました。

ちなみにこの時、笠縫村からさらに八咫鏡が持ち出された理由は現代に至っても不明とされており、つまりは誰も真実を知らないことになります。

倭姫命の巡行ルート(日本書紀)

笠縫村(奈良県・桜井市)→宇陀・篠幡(奈良県)→近江国(滋賀県)→美濃国(岐阜県南部)→伊勢(三重県)

倭姫命の巡行ルート(皇太神宮儀式帳)

笠縫村→丹波・吉佐宮(よさのみや/京都府福知山市大江町)
→美和の御諸宮(みむろのみや/奈良県桜井市三輪町)
→宇太の阿貴宮(うだのあきのみや/奈良県宇陀市
→佐々波多宮(ささはたのみや/奈良県宇陀市)
→伊賀の穴穂宮(いがのあなほのみや/三重県伊賀市阿保)
→阿閇柘殖宮(あへつみえのみや/三重県伊賀市)
→淡海の坂田宮(おうみのさかたのみや/滋賀県米原市宇賀野)
→美濃の伊久良賀波宮(みののいくらかはのみや/岐阜県瑞穂市)
→桑名の野代宮(くわなののしろのみや/三重県桑名市)
→鈴鹿の小山宮(すずかのおやまのみや三重県亀山市野村町)
→壱志の藤方の片樋宮(いちしのふじかたのかたひのみや/三重県津市藤方)
→飯野の高宮(いいのたかみや/三重県松阪市山添町)
→多気の佐々牟江宮(ささむえのみや/三重県多気郡)
→磯宮(いそのみや/三重県多気郡明和町)
→宇治の家田々上宮(やたのたのうえのみや/三重県伊勢市楠部町)
→伊鈴河上の大山中(いすずのかわかみのおおやまなか/現在の伊勢神宮・内宮)

伊勢神宮の創建

しかし、八咫鏡に宿る、天照大御神の御神意が、あまりにも強すぎたこともあり、八咫鏡(天照大御神)にふさわしい土地は、簡単には見つかりませんでした。

その後、やっとのことで運命の地である伊勢の地へと巡った時、天照大御神はこの地に鎮まりたいと倭姫命へ告げます。

それを聞いた倭姫命は、伊勢の地に八咫鏡を移してお祀りするために、さっそく、この伊勢の地に「御社殿」を建てて八咫鏡(天照大御神)をお祀りすることになります。

この時の御社殿こそが、今日の伊勢神宮(内宮)となり、伊勢神宮が創建された理由になります。

八咫鏡と斎王

このような経緯を経て、伊勢神宮は成立したため、皇室の祖先の神である「天照大御神」に、お仕えする伊勢神宮の祭主は、天皇陛下が定めた皇族、または元皇族の方が、務めると言うことが通例となっていきました。

その後、7世紀末(西暦601年から西暦700年までの100年間/飛鳥時代(古墳時代終末期))には、八咫鏡の「祭祀(さいし=おまつり)」を行う組織制度が整えられています。

この組織制度とは、天皇が即位すると、未婚の「内親王(ないしんのう)」の中から「斎王(さいおう)」が選ばれて、天皇に代わって天照大御神(八咫鏡)のお世話をするために伊勢神宮へ奉仕する取り決めのことです。

この時「私幣禁断(しへいきんだん)の制」が制定されて、伊勢神宮にお参りして金銀品々を奉納するのは、「勅使」や「斎王」のみに限られました。(唯一の例外は、「和歌の奉納」でした)


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 ところで、現在の「斎王」って誰?

ところで、現在の「斎王」って誰?ここまで、読みすすめていただいた方なら、こんな疑問も出てくると思います。

「それでさ、現在の斎王って誰?存在するの?」

などと言う疑問です。

しかし、残念なお話とはなりますが、この斎王の制度は神宮創建後の約660年後となる、朝廷が2つに割れた「南北朝時代(1330年頃)」に崩壊したといわれています。

さらに、この南北朝時代を境に、朝廷の権威は衰えていき、武家が台頭する時代に移り変わってゆきます。

すなわち、これまで天皇家が国家の中心的存在であり、天皇中心の王政が布かれていた時代では、財源の確保が容易にできました。

しかし、武家が台頭すると天皇のもとへ直接、財が集まらなくなり、財源の衰えと共に「斎王」の制度が執り行えなくなり、時代から消えていったというわけです。

以降、武家の時代に入ってから、以降、現代まで、天皇家の財源は幕府や政府によって管理されています。

すなわち、以下のような2つの理由により、斎王が現代にはいないということになります。

  • 斎王の制度を執り行う財源がない
  • 時代が民主主義になり、斎王の制度自体が消失した

えぇっ?!斎王は占いで決められていた?

実は「斎王」は、天皇の勅命の前に、なんと!陰陽師(おんみょうじ)による、占いで決められたそうです。

基本的に斎王は、一代の天皇が即位する度に未婚の皇女が1人選出され、斎王の制度が成立していた南北朝時代までの歴代の斎王の人数を数えると、なんと!60余人もの斎王が選出されています。

斎王になると、「御所内(皇居内)の初斎院(しょさいいん)」と外にある「野宮(ののみや)」で、各々約1年間、慎み深い生活を送り、京都の御所から少し離れた「桂川」で体を清めます。

その後、斎王は3年目の9月に天皇から「別れの櫛(くし)」をたまわり、大極殿での「発遣の儀式(しゅっぱつのぎしき)」を終えた後、「葱華輦(そうかれん)」という輿(みこし)に乗って、伊勢の「斎宮(さいぐう)」と呼ばれる施設へ向かいます。

また、斎王が伊勢へ向かう際は、1人で向かうのではなく、なんと!約500人もの従者がこれに付き従うほどの一大パレードであったと言います。

斎王が生活することになる「斎宮」は、伊勢国多気郡の櫛田川付近(現在の近鉄斎宮駅の付近)の下流に位置し、基本的に伊勢神宮の祭典「三節祭」が執り行わる際にのみ、神宮へ赴き奉仕したようです。

「三節祭」とは、神宮内の数ある祭典(神事)の中でも特に重要視されている次のような祭典のことを意味します。

  • 6月と12月の「月次祭」
  • 9月の「神嘗祭」

以上、合計3回。

斎王は途中で辞めるもしくは拒否することができるのか??

斎王になる人物は、半ば強制的に決められました。

これは選出されることが名誉とされていたためです。

では、「朝起きるの早いし、もぅ飽きたから辞め!辞め!」・・などと発狂して退職することができるのか?という疑問についてですが、一度、斎王に選出された人物は次のような理由がある以外、斎王を辞めることは叶いませんでした。

斎王を辞めることができる条件

  • 斎王自身の死去
  • 斎王の家族親戚など近親者の死去
  • 斎王自身がいずれかの勢力と内通を図るなどの不祥事

ちなみに斎王を退職することを「退下(たいげ)」と呼称します。

伊勢神宮の斎王は”斎宮”とも呼ぶ??

ちなみに伊勢神宮以外にも京都の「賀茂御祖神社(下鴨神社)」と「賀茂別雷神社(上賀茂神社)」の”両賀茂神社”にも斎王が存在したため、「賀茂神社の斎王」と「伊勢神宮の斎王」を区別するために、伊勢神宮の斎王を「斎宮(さいぐう)」、賀茂神社の斎王を「斎院(さいいん)」と呼び習わしたそうです。

あまり知られていない、伊勢人の「三節祭」と、天皇家(皇族)との深い関係

伊勢神宮の最も大切な「三節祭」の時には、天皇は、伊勢神宮へ使者「勅使(ちょくし)」をつかわして「絹織物」などを奉納されました。

このように伊勢神宮には、国家の祭が、人知れず行われてきた過去があったのです。

「私幣禁断の制」によって伊勢神宮は、天皇の間接的な、公的な祈りの場所になったと言うわけです。

終わりに・・

本ページでは主に斎王についてご紹介しましたが、この斎王について詳しく知りたい方は、「斎宮歴史博物館」と称する博物館が三重県多気群明和町竹川にあります。

是非!訪れてみて下さい。

斎宮歴史博物館の場所

  • 伊勢神宮・内宮から約1時間
  • 最寄り駅・近鉄「斎宮駅」から徒歩約10分
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