ええっ?!実は日本で最初の紙幣は伊勢神宮で誕生していた?!
あまり知られていませんが、実は日本で初めての紙幣通貨は伊勢神宮を中心とした都市である「伊勢市」が発祥であったことはあまり知られていません。
そしてその紙幣の名前と言うのが「山田ハガキ(葉書)」と言う名前の紙幣になります。
以下ではこの山田ハガキと山田ハガキが作られた理由などを述べています。
項・一覧
「山田ハガキ(葉書)」とは?
「山田ハガキ」とは、ストレートに読むと「宇治山田で作られた土産物のハガキ」・・と、言ったような印象を持ってしまいますが、実はこの山田ハガキこそが、ぬぅあんと!!「日本最古の紙幣」と云われています。
山田ハガキは江戸時代の1610年頃(慶長年間)に刷られ、以降、明治時代初頭までの約250年間も使用された紙幣になります。
山田ハガキを発行していたのは「神宮の下位神職であった御師」や、かつて外宮の周辺に存在した「山田門前町の商人たがより集まった「山田三方」と言う自治組織になります。この「山田三方」が発行していた通貨(紙幣)になります。
山田ハガキは伊勢市およびその近郊で使用できた通貨であり、この山田ハガキに両替することで神宮参拝時の宿泊や土産物の購入、古市の遊郭(伊勢市)での熱ぅ~ぃひととき♥などが容易に行えました。
山田ハガキのデザイン・素材・大きさ(サイズ)
山田ハガキは、長細い紙に印判がいくつか押されており「オモテ面」と「ウラ面」が存在します。
オモテ面には「人物や米俵のデザイン」や「墨書き」が施されています。
他に朱色の印が押印されたり、塗料の濃薄の具合など多数の色彩を持った紙幣であることが確認されています。
裏面には「神仏像のデザインの押印」が施されており、この神仏像の押印が、その山田ハガキが本物か偽物かを判断する際の見きわめの1つのポイントとされていたようです。
ちなみに1枚の山田ハガキを作るために、約10個もの原版が用意されて刷られていたようです。
当時ではかなり精巧に作られていた紙幣であると言えます。
山田ハガキの大きさ(サイズ)
山田ハガキは縦長の紙幣になります。
- 縦16cm×横幅3cm
山田ハガキの素材
山田葉書の素材は現在の岐阜県(古来では美濃)で漉かれた(すかれた/紙を作ること)和紙が使用されていたようです。
完成した和紙は船で輸送され、伊勢湾から河崎まで船が入り、まずは「廻漕問屋・村田弥兵衛」へ届けられて、その後に山田三方会合所へ届けられたそうです。
ちなみにこの河崎の地も室町時代から江戸時代にかけて栄えた町で、特に江戸時代では海からの神宮への入口として大変な賑わいをもった一種の神宮の港町でした。
特に遠方からの参拝客は船で海上を進み、伊勢湾から外宮の入口とも言える河崎へ入り、河崎から外宮⇒内宮と言った順序で詣でると言った、いわゆる神宮への参拝の要衝として栄えた町でもあります。
現在では「おかげ横丁」が注目されていますが、現在のこの河崎にも江戸時代の商家の遺構や蔵などが多数残っており、異国情緒を肌身に感じることができます。
その他、現在の河崎には昔の河崎の賑わいを今に伝える「河崎商人館」と言う施設が造営されています。
この河崎商人館には約20店舗ほどですが、ノスタルジックな土産物店や雑貨店、オサレな♥カフェなどが並んでいます。
伊勢「伊勢河崎商人館」の概要・問い合わせ先
- 住所:〒516-0009 三重県伊勢市河崎2丁目25番32号
- TEL/FAX:0596-22-4810(電話受付時間:9:30~17:00)
- 定休日:火曜日休館(祝日の場合翌日)
- 営業時間:午前9時30分から午後17時まで
- 入館料:大人300円、大・高学生200円、中・小学生100円
- URL:http://www.isekawasaki.jp/info/
伊勢神宮外宮から河崎商人館へのアクセス・行き方「バス・徒歩」
徒歩
外宮からは徒歩約20分ほどの距離になります。伊勢市駅からですと徒歩約17分、宇治山田駅から徒歩約16分でアクセスすることができます。
バス(三重交通)
伊勢市駅か宇治山田駅から「伊勢12系統・土路今一色線」か「伊勢鳥羽線」へ乗車「河崎百五前バス停」下車 徒歩5分
- 伊勢市駅からのバス運賃:180円
- バス所要時間:約5分ほど
バスで鳥羽方面へ(鳥羽水族館・安土桃山村など)アクセスされる場合は三重交通からお得な1日乗り放題券「伊勢鳥羽みちくさきっぷ(大人1000円、小人500円)」が販売されていますので参考にしてみてください。
山田ハガキが発行された理由
話は少し逸れてしまいましたが、山田ハガキが誕生した理由の1つとして当時、江戸幕府が行った施策である「切り銀」などの通貨が廃止されたことが背景にあります。
これらの通貨の代わりに山田ハガキが発行されたものと考えられています。
- 山田ハガキ1枚の価値(銀1匁札):現在の日本円で約1000円
- 山田ハガキの銀1匁札64枚で1両(当時の価値で約10万円)と交換できたそうです。
※注釈※江戸時代は物価変動が激しく、お金の価値も一定していませんので概算で計算しています。
山田ハガキの運営システム
ここまで読み進められた方で、山田ハガキの発行と運営管理する際の費用はドコから見繕って(みつくろって)いたのか?・・など言う疑問も出てきますが、実は山田ハガキは店々へ貸し出すと言う形で運営され、その貸出し利子で運営費や発行費用をまかなっていました。
店が山田通貨を借りた理由の1つとして、新たな価値を持った通貨があることで客数の増加や総体的な売上の増加が見込めたことにあります。
ちなみに1697年(元禄10年)に山田ハガキに関する調査が執り行われており、その調査記録が残っていたそうです。
- 山田ハガキ取扱所件数:229件
- ハガキ発行部数を金額に換算:68万7000匁(もんめ)※1匁=小判1両の60分の1
- ハガキ発行枚数:82万4400枚
※調査内容参考先サイト:伊勢河崎商人館
山田ハガキが流通した要因
山田ハガキが流通し明治時代まで続いた要因として「御師と伊勢神宮の集客力」と「紙幣の運営管理が徹底されていた」ことが挙げられます。
御師の集客力と日本の神宮と言う絶対不動なものが絶対的な信用力を作り上げ、これが足場となって派生する形で山田ハガキの信用に繋がったものと考えられます。
「少額の通貨を両替できて様々な取引が行えた」と言うことも流通した理由に挙げられます。
上述したように幕府によって一部の小額通貨が廃止され、小額通貨の流通が乏しかったのも背景にあります。
山田ハガキは当時の紙幣には珍しく「兌換準備金(だかんじゅんびきん)」と言う制度が設けられていました。
兌換準備金とは、分かりやすく言えば山田ハガキを換金でき、さらに正当な価値の換金を補償すると言った制度です。そのための準備金になります。
山田奉行(やまだぶぎょう)と言う神宮の警護にあたっていた江戸幕府の機関である奉行所が公認していたと言うことも挙げられます。つまりは実質上、「江戸幕府公認の紙幣」と言う位置づけであったことも信用に繋がっていたものと考えられます。
山田ハガキの歴史と年表
1610年 山田ハガキが発行される。
以降、1789年(寛政元年)まで伊勢山田地域の自治体組織「山田三方(江戸時代の伊勢山田地域の行政を取りまとめた自治体)の運営管理の下に発行開始される。
1740年(元文5年)には山田ハガキの発行ルールが以下のように改られています。
- 1匁⇒白色
- 5分⇒青色
- 3分⇒赤色
- 2分⇒黄色
1790年(寛政2年)に差し掛かると山田三方だけではなく、江戸幕府の組織である山田奉行の管理下にも置かれ、実質上、江戸幕府公認の「地域限定の公札」として取り扱われるようになり、さらに信用力が増し、発行が促進されることになる。
以降、1867年(慶応3年)までは江戸幕府(山田奉行)の運営管理の下で存続して行くことになる。
1868年(明治元年)になると江戸幕府が倒れ、代わって明治政府が山田奉行の代わりに管理することになり、度会郡小林村(現在の伊勢市御薗町小林)に「度会府(わたらいふ)」と呼称される管理所を設営して「度会府」による運営管理が行われる。
以降、藩札が廃止となる1875年(明治8年)の貨幣条例(日本全国の貨幣価値の一元化)まで発行され続けることになる。
ちなみにこの山田ハガキは現存が確認されており、1610年(慶長15年)に発行されたものが日本銀行に所蔵されています。
日本最古の紙幣と言われる「山田ハガキ」、はたして世界では何番目に古い??
上述した通り、この山田ハガキは日本では最古の紙幣となりますが、では世界的に見てどれくらい古いものなのか?・・などと言ったことも知りたくなります。
実は世界最古の紙幣は中国・宋の紙幣「交子」であると言われています。
画像引用先:wikipedia.org
中国はその後も元朝(元寇の元/日本では鎌倉時代)において「交鈔(こうしょう)」と言う紙幣を発行しています。
これに次いでの紙幣と位置づけられていますので、国家としては中国に次いで世界で2番目、紙幣としては「世界で3番目に古い紙幣」と言うことになります。
山田ハガキが”ハガキ”と呼称される理由と名前の由来について
ここで読み進めてみて、ずっと疑問に思いませんでしたか?
山田ハガキは紙幣でありながら「ハガキ(葉書)」と呼ばれています。
いったいなぜ山田ハガキと呼ばれているのでしょうか?
実は山田ハガキが「ハガキ」と呼称されるようになった理由は定かではないようです。
しかし一説によると「公的証書」のことを当時ではハガキとも呼称していたようです。
やっぱり!山田ハガキにはニセ札が出回っていた!!
以上のように当時では御師の客引きや信用力と重なって、便利と言うことでかなり流通した山田ハガキですが、実際は「ニセ札」も数多く出回ったそうです。
そのニセ札流通の防止策として、山田三方では7年に1回、デザインの変更をしています。
簡単にニセ札が発行できないように、原版の彫刻を細かくしたり色彩を豊かにして多数の色を持たすなどの対策をしていたようです。
これらのことから考えると、初期の山田ハガキより後々の山田ハガキの方がデザイン性がより豊かなになっていたと言えます。
後にこの山田ハガキは、一般的には日本で最初の紙幣とも言われる「藩札(はんさつ)」の発行に繋がっています。
まず、伊勢市近郊の藩(津藩、和歌山藩、鳥羽藩など)が山田ハガキを模して藩札を発行しはじめています。
当時の日本各地の藩は財政が苦しく、財政をできるだけ黒字にする施策を模索しており、この山田ハガキの成功が日本各地の藩へ伝播したものと考えられます。
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