伊勢神宮(-JINGU-)◆ 清盛楠(KIYOMORI-KUSU)
樹齢
- 推定1000年以上
楠の高さ
- 10m
幹の周囲の長さ
- 9m
清盛楠の読み方
清盛楠は「きよもりくす」と読みます。
清盛楠の名前の由来
平安時代のこと、平家の平清盛(たいらのきよもり)が伊勢神宮へ参拝した折、ちょうどこの楠木(くすのき)の枝に清盛のかぶっていた「冠(かんむり)」が触れてしまい、冠が地面に落ちたそうです。
これに激怒した清盛は即座にこの楠の枝を切らせたそうです。この出来事が伝承され「清盛楠」と呼ばれるようになりました。
現代では「冠が落ちたくらいで激怒して大人気ない・・」などと、ふと考えてしまいますが、平安貴族にとって冠が脱げ落ちることはとても恥ずかしいことでした。事実、冠が脱げ落ちれば頭を手で覆い隠していたようです。
清盛楠の歴史
外宮の表参道の入口から入り、「火除橋(ひよけばし)」を渡ると「手水舎(てみずしゃ)」があり、その向かい側に古来、「清盛楠」と呼ばれる大きな楠があります。
樹齢はおよそ1000年、楠の高さ約10m、幹の太さが約9mにも及ぶ大きな楠です。
平清盛といえば、およそ800年前(平安時代の末期)の武将です。
平清盛は、中国・宋との貿易によって財政基盤をしっかりさせ、通貨を流通させるなどして日本で初めて武家政権を確立させた人物です。
平清盛は過去に天皇の使者として国家安寧を祈願して、伊勢神宮に3回ほどお参りに訪れたことがあったようです。
なお、以前の清盛楠は太くて風格のある古木でしたが、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風の時に割れてしまい、現在は、2本の木にも見えます。
そのため当時の面影はありませんが、今も立派に立っています。
清盛楠にまつわる面白い話
楠を切ったのは全くの別人だった説
言い伝えでは、清盛が命を下して楠を切ったとされていますが、実は息子の平重盛が「無礼な楠め!」などと、真っ先に腹を立て、清盛の代わりに命を下して切らせたとも云われています。
清盛楠が伊勢湾台風で割れたのはウソ??
この清盛楠は、伊勢市を襲った「伊勢湾台風」の際に、まっ二つに割れたと伝承が残っているようですが、実はもともと2つに割れていたという説があります。
この楠は、台風が吹き荒れたとされる、その当時から、すでに大きく育っていたと云われています。
この理由は、楠の性質として軟質でシナリがあって頑丈であり、このように大きく地中深くに根を下ろした楠が強風でこのような形で2つに割れるのは、どうも妙な話だということです。
この楠は根は太く、地中深くに根を下ろしていることから、現在も成長を続けており、割れた痕跡を残す決定的な証拠がないといったも理由に挙げられます。
なお、この説に関しては宇治山田市に伝わる「宇治山田市史」に詳しい記載が記されています。
意外な事実!清盛と深い縁があった三重県の地
2012年1月8日より放送された、NHK史上、最低視聴率を更新したことで話題となった「NHK大河ドラマ・平清盛」。
ドラマでも紹介されましたが、三重県の津市は「伊勢平氏の生誕の地」としても知られており、この「津」から「中央(京都)」へと勢力を拡大していくことになります。
そして、伊勢平氏の代表格として有名な武将がこの「平清盛(たいらのきよもり)」です。
港町・津市で生まれた清盛は、平治の乱の鎮圧などで武功を立てるとともに貴族に巧みに取り入り、背中に強力な後ろ盾を得ます。
これらの後ろ盾をうまく利用して中央へ進出したのを機とし、津や熊野を根城としていた海賊集団を組織して瀬戸内海へも進出します。
その後、瞬く間に瀬戸内の制海権を掌握した清盛は瀬戸内海に関所を設け、関所を通る船から、海での交通安全を保証する代わりに莫大な金銭を得ました。
後に、世にも稀な出世を果たし、瀬戸内海における、すべての政治的権限を掌握し、中国の宋との独占交易を行うに至ります。
この後、平家一門の繁栄を祈願して広島県・宮島「厳島神社」を再建(造営)し、神の力をも背中に得た清盛は、さらに莫大な富と権力を積み上げていくことになります。
これら財源が基盤となり、清盛と平家はこれ以降も飛躍的に急成長していくこととなります。
伊勢神宮(外宮)清盛楠の場所(地図)
表参道・火除橋を渡って右脇。斎館の左脇。