伊勢市でも指折りのパワースポットだった!!三重県伊勢市「猿田彦神社」

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伊勢市でも指折りのパワースポットだった!!伊勢「猿田彦神社」

三重県・伊勢市「猿田彦神社」

伊勢市でも指折りのパワースポットだった!!三重県・伊勢市「猿田彦神社」

創建年

不明
有史以前

建築様式(造り)

入母屋造り
二重破風付き
妻入り
※さだひこ造り(二重破風・妻入りの総称)

御祭神

猿田彦大神
大田命
天宇受売命(佐瑠女神社)

ご利益(猿田彦神社)

交通安全
方位除け
漁業豊漁

ご利益(佐瑠女神社)

稽古事(習い事)や芸能の上達
芸能関係の業界繁栄
恋愛成就(縁結び)

例祭

春季例大祭:4月4日・5日
秋季例大祭:11月4日・5日
御田祭:5月5日(午後1時〜3時頃まで)

猿田彦神社の読み方

難しい漢字の表記で、読みにくい名前の御祭神や殿舎がありますが、猿田彦神社は「さるたひこじんじゃ」と読みます。

地元では「猿田彦さん」と親しみを込めて呼ばれています。(伊勢方言とも言うべきか・・伊勢では”さん”を最後に付けることが多い。「月読さん」「外宮さん」など)

伊勢「猿田彦神社」 のご利益

猿田彦神社の境内には「佐瑠女神社」という境内社がありますので、併せて佐瑠女神社のご利益もご紹介しておきます。

御本殿「猿田彦大神」のご利益

  • 方位除け
  • 交通安全
  • みちびらき(開運)

「猿田彦大神」は「道案内」や「みちびらき」の神様です。

従って、物事の始まりの道標となってくれる神様として新しいことを始めようとした時や、何かを決意した時にお参りすると最良の方向へ導いてくださいます。

そのため「方位除け」や「交通安全」のほか、「開運」の御利益があるとされ、古くから伊勢神宮へ参拝する前に猿田彦神社へお参りすると、道中の安全を守ってくれるとも伝えられています。

境内社「佐瑠女神社(天宇受売命)」のご利益

  • 稽古事(習い事)や芸能の上達
  • 芸能関係の業界繁栄
  • 恋愛成就(縁結び)

「天宇受売命」と言えば、天照大御神を「天岩戸」から出そうと、周囲が笑い転げるほど激しく舞い踊ったとされる神様として有名です。

そんなことから稽古事や芸能の上達、芸能関係の業界繁栄、それと、激しく情熱的に踊ったことからパワーが得られる場所として、縁結びや恋愛成就にも効果があります。

それと天宇受売命が猿田彦神社の境内でお祀りされている理由にもなりますが、猿田彦神と会話を試みて、最終的には天照大御神に仕えるように説得して成功に導いています。

以上のことから単に男女の縁だけではない、人間関係や仕事関係の縁結び(良縁結び)のご利益があります。

それと猿田彦神と天宇受売命は前述のような縁があってのちに夫婦になっています。このことから恋愛成就のご利益もあるとされます。

近年では伊勢神宮の参拝を兼ねて猿田彦神社に訪れる方も多く、中にはスポーツ選手や芸能人などの有名人の参拝も多いようです。

猿田彦神社の境内案内図

猿田彦神社の境内は決して広いとは言えませんが、総体的な敷地面積は広いのでウロウロするとそれなりに滞在する時間が増えます。

伊勢の猿田彦神社で有名なパワースポットとされるのが境内中央、御本殿の正中線上にある「古殿地(こでんち)」です。

後述していますが、古殿地ではちょっとした占いが楽しめます。

もう1つのオススメは御本殿の裏側へも足を延ばしてみることです。

本殿に裏側には猿田彦神社の名物祭「御田植祭(おたうえさい)」が開催される「御神田(おみた)」があります。

御神田とは、公的に認められた神社が所有する「田んぼ」のことです。

夏時期に猿田彦神社に訪れると風になびく青々とした稲を見ることができるでしょう。

伊勢・猿田彦神社の参拝所要時間(滞在時間)

  • 通常:約30分ほど

猿田彦神社の境内はそれほど広くはありませんが、御本殿の奥には御神田があったり御神田の東側には森林があってその中に謎の石像群が置かれていたと、なんだかんだと見どころがありますので、キッチリ回ろうと思えば上記の時間はかかると思います。

これに加えて御朱印や御守りの授与、付近の「伊藤小坡美術館」に立ち寄られる場合は、1時間ほどの時間を見込む必要があります。

伊勢・猿田彦神社の営業時間(参拝できる時間)

営業時間:9時頃から17時頃まで
定休日:なし(年中無休)


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三重県・伊勢「猿田彦神社」 の4つパワースポット!!

伊勢・猿田彦神社のパワースポット【その1】「方位石(古殿地の石)」

猿田彦神社の古殿地は、八角の石柱に方角を示す干支が刻まれおり、運気を上げたい時に、この石に刻まれている文字は「十干十二支」で記されています。

したがって、自分の千支や今年の干支、これから向かう方向の文字を手でさすると効果があるとされています。

「向かう方向」とは、旅行などでこれから行く方角や、進学予定のお子さんがいる場合は、自宅から学校への方角などのことをいいます。

他にも、これからお店を新しく開業する方などは、鬼門となる方角を把握しておいて、その方角を封じる意味合いで、この石を手でさすると良いとされます。

例えば次のような例があります。

出世運を上げたい場合

亥からさすり→卯→未へ

金運を高めたい場合

巳からさすり→酉→丑へ

一家繁栄の運気を高めたい場合

申からさすり→子→辰へ

良縁結びの運気を高めたい場合

寅からさすり→午→戌へ

なお、猿田彦神社では方位石に触り方については特に定めていないと案内されています。

「参拝者さまの自由にお触りください」

とのことです。

お参りが終わった後には、御守りやお札を授かるのも忘れずに。

ところで・・「古殿地」とはなんでおぢゃる?

古殿地とは「こでんち」と読み、これは以前に御神体が祀られていた場所を意味するでおぢゃる。

神宮における古殿地を参考にすると遷宮前に社殿があった場所が古殿地になるでおぢゃるのぅ。ホっホっ

つまり古い社殿があった土地(場所)という意味合いになるででおぢゃる。

猿田彦神社では、1936年(昭和11年)までは、ちょうどこの方位石の場所で御神体が祭祀されていたようででおぢゃるゾ。

1936年(昭和11年)に本殿ならびに拝殿が現在の場所に新設されて、御神体が現在の御本殿が建つ場所に遷されておるのぢゃ!ガァ~

伊勢・猿田彦神社のパワースポット【その2】「子宝池」

宇治土公家の産霊神がお宿りになっておられるとされる池です。子宝に恵まれるという言い伝えから子宝池と呼称されています。

子宝池

 

これから子宝を授かりたい新婚さんや、安産で丈夫な赤子を望まれる妊婦さんは池の前で祈りを捧げると良きご加護を賜ることができます。

伊勢・猿田彦神社のパワースポット【その3】「たから石」

石の形が宝船に似ていることから「たから石」と呼ばれて祀られています。

船だけでなく、白蛇(へび)が乗っているようにもみえることから”へび石”とも呼ばれ、古来、「金運向上のご利益がある」とのことで石の前で手を合わせる人の姿も見えます。

まさに猿田彦神社の中でも指折りのパワースポットと言えるでしょう。

ただ、この石の正体は「さざれ石」です。

「さざれ石」とは「石の粉」や「小石」が積り積もって、さらに雨(酸性雨)などの影響で石が溶されて、長い年月をかけて「1つの大きな石」となったものです。詳細は下記、「さざれ石」の項を参照。

伊勢・猿田彦神社のパワースポット【その4】「さざれ石」

  • 材質:石灰質角礫岩(せっかいしつかくれきがん)

この「さざれ石」は岐阜県揖斐郡(いびぐん)春日村の山中にて採石され、岐阜県大垣市「大垣みちびらき会」の有志一同によって奉納された「さざれ石」になります。

この石は酸性の雨を長期間浴び続け、溶け出したときに石灰岩の石灰質の変成作用で多くの小石を集めたて固まった姿だと云われます。

さざれ石は形状がドンドン大きくなっていくことから、元来、神の御霊が宿る霊石と捉えられ、多くの信仰が寄せられる対象物として位置付けられています。

日本国家「君が代」と「さざれ石」との関連性

この「さざれ石」に関しての有名な歌があります。どんな歌かお分かりになりますか?

ちょっと考えてみてください。

・・

・・

残念無念!ハズレです。

正解は、日本国歌「君が代」です!

「君が代」の歌の中で「さ~ざぁ~れぇ~いしぃ~のぉ~♪」・・などと歌われています。有名ですね。

これは小石が大きくなって巌(いわお/大きく頑強な岩)になり、コケが生えるくらいまで成長を遂げる過程を歌で表現したものだと考えられています。

ただし、歌中の「君が代」の意味は不明とされているようです。

伊勢・猿田彦神社のパワースポット【その5】「招霊の木(おがたまのき)」

  • 科目:モクレン科オガタマノキ属
  • 属性:常緑高木
  • 植えられた年(奉納年):平成31年4月
  • 寄進者:株式会社スターダストプロモーション

この招霊の木は後述の「佐瑠女神社(さるめじんじゃ)」の御祭神「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」が天岩戸の前で踊りのような舞を披露したとき、手に持っていた樹木だとされています。(榊さとされる説もあり)

招霊の木は毎年、秋頃になるとブドウのような長い実を付けますが、この実の形が巫女の持つ神楽鈴の形状に似ていることから、神楽鈴が考案されたと伝えられています。

⬆️神楽鈴

⬆️招霊の木の実

ちなみにこの招霊の木の奉納者の名前を見ると「株式会社スターダストプロモーション」と書かれています。スターダストプロモーションと言えば有名なタレントや俳優を幾人も抱える大手芸能プロダクションです。

なんといっても佐瑠女神社の御祭神「天宇受売命」は踊りの名手なので、ある意味、芸能の達人です。きっと芸能事務所だけに巫女の祖先神ともされる天宇受売命のご神徳にあやかろうと奉納されたのでしょう。

伊勢・猿田彦神社のパワースポット【その6】「佐瑠女神社(さるめじんじゃ)」

⬆️佐瑠女神社の内部

  • 創建年:不明
  • 御祭神:天宇受売命
  • ご利益:芸能上達、芸能業界の繁栄、恋愛成就
  • 例祭:8月17日17時〜(宵祭)、8月18日(本祭)午前11時〜

佐瑠女神社は猿田彦神社の境内にある神社で「佐瑠女」とは「さるめ」と読みます。

猿田彦大神の妻「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」を御祭神としています。

佐瑠女の言葉の意味は定かではありませんが、元来「猿女(さるめ)」と書いたのかもしれません。

「猿女(さるめ)」の言葉の由来とは?

御祭神の天宇受売命は天照大御神の甥である「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」の天孫降臨の一行(メンバー)です。

一行は、天から地上へ降るときに天と地の狭間である「あめのやちまた」という難所で猿田彦神と出会います。

実はこの時、猿田彦神の外見の異形さから、天孫降臨のメンバーは驚きのあまり誰も口を聞けずにいました。

そこで猿田彦と最初に会話を試みたのが天宇受売命です。

天宇受売命は敵意がないことを証明するために胸をはだけてオッパイをボぃぃヨヨヨんとさらけ出し、猿田彦神に迫ります。ウっふぅ〜ん

その後、猿田彦神は一行を地上まで道案内し、そればかりではなく後に猿田彦神を天照大御神に仕えさせることにも成功します。

このような功績から瓊瓊杵尊より、猿田彦神の名前を取って「猿女君(さるめのきみ)」と命名されています。

以来、天宇受売命の子孫は「猿女君」と名乗り、朝廷で祭典を取り仕切る重職に就くことになります。

佐瑠女神社の例祭はHOTな夏に行われる!

毎年8月17日、18日になると佐瑠女神社では例祭が行われます。境内の彼方此方に提灯に飾りたてられ、崇敬者の様々な芸事が奉納されます。


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猿田彦神社のその他の見どころ

御本殿

御本殿には猿田彦神と太田命が祀られています。実は太田命は伊勢土着の土地神であることから、内宮の御垣内でも祀られていることをあまり知られていません。

御垣内では「興玉神」という名前で御正宮内の石畳の上にお祀りされています。無論のこと一般参拝者は見ることはできません。

実は、猿田彦神社・本殿を向かいて右脇の御垣内には小さな覆屋(おおいや)があります。おそらく、内宮同様にこの中に御垣内を守護する神が祀られているものと思われます。

御本殿の千木の形状は主祭神の性別を示すとされていますが、なぜか猿田彦神社の千木は女性の神を表す平行状の女千木になっています。

対して猿田彦神社の総本宮と目される椿大社は男千木であることから、謎は深まるばかりです。

拝殿

猿田彦神社の拝殿は破風が二重に据えられた特徴的な造りをしています。このような世にも珍しい造りであることから、特別に「さだひこ造り」と呼ばれています。

しかしここで疑問が生じるのですが、「猿田彦」なのになぜに「さだひこ」?と言う疑問が生じてきます。

そこで猿田彦神社の神職さんへ直接お聞きしたところ、祝詞を奏上するときに「さだひこ」と読むことがあるようです。

漢字がまだ成立していない時代、猿田彦がナマって「さだひこ」と呼ばれるようになったとしても何ら不思議はないでしょうな。ホホホ

すなわち、「さだひこ」という読みに対して「猿田彦」という漢字が「当て字」として充てがわれているといった解釈になるでしょう。

拝殿に連接される祝詞殿は平安時代の貴族の邸宅を彷彿とさせる「神殿造り」で造営されています。

神紋

猿田彦神社の神紋は「五瓜梅鉢」!

猿田彦神社の神紋は「五瓜梅鉢」と呼ばれるものです。織田信長の織田家の家紋「木瓜紋」にも似ていますが、中が梅を象徴した模様が象られているため、まったくの別物です。

由来は不明のようですが、近畿地方や九州地方で多く見られる家紋のようです。梅は天神系(菅原道真公)の象徴とされていますが、さてはて。

佐瑠女神社の神紋は「鶴舞」!

境内社の佐瑠女神社にもオリジナルの神紋が用いられており、「鶴舞」という神紋になります。

この神紋、どこかで見覚えがありませんか?

そうです。

航空機のJALのマークがこの鶴舞です。

御神田【無形民俗文化財】

  • 無形民俗文化財登録年月日 : 1971年(昭和46年)3月17日

噂の本殿裏の田んぼ「御神田(おみた)」です。

例年、GW期間中となる5月5日の12時頃から御田祭(三重県無形文化財)が斎行されますので、猿田彦神社へ参拝される際は混雑必至ですが、5月5日に足を運んでみるというのはいかがでしょう。

当日は桃山時代をモチーフとした衣装を着用した植方の氏子が田んぼに入り、田楽などの音頭に合わせて早苗を挿し込むようにして植えていきます。

主に地元民が参加する祭ですが、伊勢の夏の風物詩として語り継がれており、夏時期に訪れると青々と生い茂った稲を見ることができるでしょう。

猿田彦神社の御神田は「イセヒカリ」発祥地!

実はなんと!猿田彦神社の御神田で植えられている稲は世界に1つしかないという「イセヒカリ」と珍種の米です。

イセヒカリは1989年にこの御神田で発見され、当時、皇大神宮2000年記念で大盛況だった背景もあり、縁起を担ぐ意味合いで「イセヒカリ」と命名されています。

その後の調査ではコシヒカリの突然変異種であることが明らかにされています。

その向こうには藤棚もあるので4月頃訪れると花弁を付けた藤を観ることができるかもしれません。

謎の猿の石像・石碑群

御神田を正面にみて右脇には、少し段差のついた杜(森林地帯)があるのですが、この森林の中に猿田彦神を意味したものなのかは分かりませんが、猿と思われる2体の石像が置かれています。

石像の前にお賽銭が散乱していることから、もしかすると猿の形をした世にも珍しいお地蔵さんなのかもしれません。

あなたはどう思いますか?

また、この猿の石像に前には文字は消えかけていて読めないのですが、相当古い時代のものと思われる傾いた石碑があります。

他にも「猿田彦大神」と刻まれた石碑もありますが、これは石碑というよりはもはや、原始神道の磐座(いわくら)に近いものといえます。時代は相当古いものと思われます。

いずれにしても猿田彦神社の中ではユニークなエリアだと言えます。

八角形の柱

⬆️世にも珍しい「八角形の柱」

神社へ訪れての楽しみと言えば、やはり声を揃えて「おみくじ」や「絵馬」と答えるのではないしょうか。

ただ、中には遠方からお越しの方で外宮から内宮への参拝の途上、この猿田彦神社へ立ち寄って参拝される方もいると思います。

またとない機会だと思って、猿田彦神社に来たらちょっと騙されたと思って本殿(拝殿)屋根上や敷地内の柱を見渡してみてください。

あまり目が行かないので知られていませんが、猿田彦神社・本殿の屋根上の鰹木(かつおぎ)や欄干(らんかん)および、境内社である佐瑠女神社の社殿も八角形をしています。

また、境内の鳥居を含めた柱という柱もすべて八角形をしています。

⬆️佐瑠女神社前の鳥居の柱とよく見れば礎石も八角形。

理由は単純明快で、方位を司る神を祀る神社であることからこのように八角形にしているのでしょう。

ちなみに本殿前に置かれている八角形の方位石には方位が書かれていませんが、これは中国の「八掛」でいう八方位を、8つの角を取ることで表現しています。

八方位(はっぽうい)とは?

東西南北と北東/北西/南東/南西

の各8つの方位の総称です。

本殿前の方位石では占いができますが、これは八角形の盤を利用して占う「八掛(はっかけ)」の占い方法を採用していると捉えることができるでしょう。

このほか、八角形は8つの角を取ることで「無限の宇宙」を表現しているとも云われます。

昔の日本では占いが公的なものとして認められていましたので、「8」という数字に深い意味合いがあると考えてきました。

ちょっと「八」の文字をジックリご覧になってみてください。

上から下に行くにつれて広がっていませんか?

昔の日本人この「八」という字は「道びらき」、いわゆる「開運の兆し」を司る文字として信仰していたようです。この「八」の文字から生まれた語源もあるくらいです。

例えば、「八方美人」や「八重桜」に「八雲」、・・そう言えば天照大御神の御神体である神鏡は「八咫鏡」も「八」!…はてさて。

参拝休憩所

⬆️参拝休憩所

⬆️休憩所の内部

神社の休憩所の椅子としては珍しく、中にはクッション付きの豪華ホニャほにゃホニャららら的な長椅子が20席ほど置かれています。

クソ夏い暑は冷房が聞いていますので境内をひと通り回り終えたら、一息入れるつもりで立ち寄ってみてはいかがでしょう。

なお、休憩所内では飲料自販機などはありませんのでご注意ください。

トイレは休憩所を出て右側にあります。タンクが満タン気味の方は水抜き(射出)を適宜行い、タンクを空の状態にしておくことで最悪の事態とも言える漏水だけは回避することができます。フぅ〜

参拝休憩所内にある「みちびらきの神輿」

⬆️「みちびらきの神輿」

猿田彦神社の例祭の1つである11月23日に斎行される「新嘗祭」で使用されるお神輿です。昭和の初めに造られた神輿です。絢爛豪華な外観や重量があることから「百貫」として、「百貫神輿」とも呼ばれます。現代で100貫を表すと「375キロ」になります。

ここから派生した言葉で「百貫デブ」という言葉があります。

午前中は神事「新穀感謝祭」が執り行われ、昼過ぎからこの神輿を勇ましい男衆が担ぎ上げ、内宮周辺の「おはらい町」などを渡御します。

屋根上の露盤の上には大空を制空せんばかりの勢いをみなぎらせた「大鳥」が飾られ、屋根の軒先部分となる金色の「蕨手(わらびて)」の先には「小鳥」と称される鳳凰の飾りが据えられたりするなど、絢爛豪華さがみなぎる神輿です。

宇治土公家(宮司さん)の御宅の赤門と朱門橋

⬆️赤門

⬆️朱門橋

赤門は代々、猿田彦神社の宮司を務める「宇治土公家」の邸宅の正門として旧玄関の正面、子宝池の南側に建てられていました。

現在見ることのできる赤門は近世に建てられたような目新しい門に見えるのですが、これは平成30年に実施された屋根修理の際に再塗装が施されているからです。実際はなんと!江戸時代初期に造営された由緒ある門です。

1971年(昭和46年)に当地に移築されています。

宇治惣門跡

かつて牛追坂(現在の牛谷坂)と呼ばれた坂の先にある門が宇治惣門です。焼け焦がれたように黒かったことから別名で「黒門」とも呼ばれ、番人が交代で立つために番屋まで設けられていたようです。

明治維新以後に撤去され、その遺構としてこのような石碑が建てられています。

江戸時代、外宮の北側を流れる勢田川周辺は「河崎」と言う卸問屋が軒を連ねた繁華街でした。この河崎からさらに南へ降ると「西の吉原」とまで謳われた西日本最大規模となる「古市」という遊郭街があったのですが、この「古市」から参宮のために通った道が牛追坂です。

現今に至っては、外宮から内宮への一般的な参拝道は「御木本道」か「御幸道」ですが、この当時は外宮から岡本町→尾上町→倭町を抜けて→古市(古市参宮街道)→中村町→内宮へと至ったわけです。

かつての外宮から内宮への参宮街道

しかし、この当時の牛追坂という坂は、坂というよりは崖に近いような地形だったようです。

このため神宮も手を焼いていたようですが、参拝者が増加してくる背景も重なり、ついに1674年(延宝2年)に神宮主導により、参道の工事が開始されます。

この工事は難航を極めたようで、とうとう死者まで出たことから中断されることになります。

この後、古市「千束屋(ちづかや)」の女主人「里登(りと)」が、遊郭業で貯めた私財をはたいて牛追坂を改修しようと一念発起します。

里登は先立って外宮神官の松木信彦に出会っており、この時、神宮参拝者の道中の苦労話を聞かされたそうです。

工事は1805年の秋に開始され、翌年(1806年)春に無事に完成。このとき同時に名前も改められ「牛谷坂」と改称されています。

「牛谷」と付された理由は現在に至っても不明とされていますが、以下のような諸説あるようです。

  • 工事の際に牛を多頭、使用したことから牛の功績を称えた
  • この谷にかつて病気にかかった牛馬などを棄てていた
  • この谷に牛鬼という鬼が棲んでいた

…etc

里登も、この功績が讃えられて特別に姓を名乗ることが許され、以降は「山田里登」と名乗ったそうです。享年88歳。

現在でも当時の名残を今に伝えるような2基の大きな常夜灯が牛谷坂の始点に残されています。この常夜灯は「おかげ参り」の頃から当地に立つ常夜灯です。

実際に奉納者の名前を見てみれば分かりますが、埼玉県の卸問屋や北は北海道の商家などの名前が刻まれており、「おかげ参り」が実際に存在したことを物語る燈篭でもあります。

時間があれば立ち寄ってご覧になってみてください。ウフ

本居宣長の碑文

  • 高さ:約4m
  • 場所:駐車場の片隅

草書体で書かれているので読みにくいのですが、こう書かれています。

神世より神の御末とつたえへ来て 名くはし宇治乃土公 わが勢

と刻まれた石碑です。

これは本居宣長本人が二見定津(宇治土公の一族)へ送った歌碑です。二見定津は内宮権祢宜として神宮へ奉仕すると共に、1796年(寛政8年)2月に本居宣長の門をたたき、入門しています。

なお、この石碑(歌碑)は本居宣長の歌碑としては日本最大の大きさになるとのことです。

猿田彦神社のイベント行事「奉賛講」

10月上旬には、全国の崇敬者を中心とした「奉賛講」があります。

日々の生活が穏やかでありますようにとの願いのもと、講員を集めて毎年盛大に斎行されます。

奉賛講員になると「みちひらきの御神符」の授与、「奉賛講大祭・研修会開催」の案内、「昇殿参拝」、「講報の送付」、「みちひらき手帳」の発行、「大祓式」への案内または、お祓い人形の送付などがあります。

さらに講員や講員の子女の方が猿田彦神社で挙式する際には特典の授与、「伊藤小坡(いとうしょうは)美術館」の入館無料の特典があります。


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猿田彦神社運営「伊藤小坡美術館」

伊勢・猿田彦神社「伊藤小坡美術館」

猿田彦神社から徒歩約4分ほど牛谷坂を古市の方へ上がっていくと、左手に「伊藤小坡美術館」が見えてきます。

「伊東小坡(いとうしょうは)」とは、猿田彦神社の神主一族である「宇治土公」のご令嬢です。

猿田彦神社の宮司である「宇治土公貞幹(うじとごさだもと)」の長女として明治10年に生を得て、幼少の頃より文学や武術、茶の湯を学んでいたようです。

しかし、押絵に興味を抱き始め、明治28年に磯部百鱗に弟子入りしたことで画家としての人生を歩みはじめます。

以後、磯部百鱗(いそべ ひゃくりん)の紹介で森川曽文に師事、曽文の他界後は谷口香嶠に師事し、「小坡」の名前を授かっています。

伊東小坡は京都に籍を置く磯部百鱗に師事したことから、京都を中心に活動を展開し、風俗画や美人画を中心に描いています。

伊勢神宮との関係は神宮徴古館で開催された「郷土の画家三人展」で作品を出展しており、その約2年後にこの世を去っています。

画像提供先:伊東小坡美術館

伊藤小坡美術館のお問い合わせ先(住所・電話番号・入館料金・連絡先)

住所:伊勢市宇治浦田2-4-65
電話番号:0596-22-2554
開館時間(営業時間):9:30-16:00

入館料

  • 一般300円
  • 高大生200円
  • 小中生100円

伊勢・猿田彦神社の御朱印(御朱印帳/御朱印入れ)・お守りの種類など

伊勢・猿田彦神社の御朱印・お守りについては下記ページをご参照ください。

猿田彦神社の御祭神「猿田彦神」とは?

猿田彦神社の主祭神は「猿田彦神」です。「古事記」においては「猿田毘古神(さるたびこ)」、「猿田毘古大神」、「猿田毘古之男神」、「日本書紀」においては「猿田彦命(さるたひこのみこと)」とも書かれます。

猿田彦神は、かなり外見に特徴があるとされる神様で、鼻の長さが110cmもあり、背の高さも約210cmもあると伝えられています。

その他、目や口元が眩いばかりに光輝き、五光を放っていたとも云われております。その姿はまるで天狗を連想させるほど天狗に似ているとのことです。(一説では天狗の起源が猿田彦神だとも)

この神様は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨の際、一行を道案内したと云われています。

天孫降臨(てんそんこうりん)とは天照大御神の御命により、瓊瓊杵尊を地上の主宰者としてさらに5人の神様を瓊瓊杵尊に随従させて降らせた一連の事象を指します。

この時、天照大御神は天鳥船(あめのとりふね)に瓊瓊杵尊らを乗せて降らせていますが、途中となる天上界と地上界の間でいくつもの道(分岐点)が出現したそうです。

この分岐点は8つに分かれていたことから「 天之八衢(あめのやちまた)」と呼ばれていますが、この分岐点の前に立っていたのが猿田彦神です。

この後、ニニギ一向を地上世界の高千穂(たかちほ)までの道を案内し、自らは伊勢・五十鈴の地に戻り、土地を開拓したとされています。もしくは二見ヶ浦の大石に鎮まったという説もあります。

【補足】高千穂の本当の場所はドコ??

ちなみに現在、一般的に天孫降臨があったとされる場所は「南九州・日向(ひゅうが)国の高千穂」とされていますが、学術的な考察によれば、日向国の高千穂ではなく、北九州(福岡県糸島市)の日向(ひなた)の方とみられています。

また、伊勢・二見ヶ浦に建つ二見興玉神社の社伝によれば猿田彦神は道案内したのち、二見ヶ浦の大石に御神霊を宿らせて依り代としたとも伝えられています。

猿田彦神にまつわる面白いエピソード

猿田彦神についてはちょっと面白いエピソードが残されています。

伊勢地方に古くから伝わる「伊勢国風土記」という古文書の記述によれば、猿田彦神が五十鈴川に鎮まったとき、実は伊勢にはもう1人「伊勢津彦(いせつひこ)」という神がいたそうです。

伊勢津彦神は外宮周辺の土地を支配し、猿田彦神内宮周辺(五十鈴川周辺)の土地を支配し、すなわち、神が2人も同じ国に在籍したのです。

神が2人も同じ国にいるものだから、ついに両方の神は互いの土地の領有権を希求し、ケンカをはじめてしまいます。

しかし両者決着つかず、こう着状態が続いたのですが、ここでとんでもないことが起こります。

なんと!猿田彦神が現在の三重県の一志(松坂市)の阿邪詞(あざか/現在の阿坂)の海で比良夫貝(ひらふがい)に噛まれてしまい、溺れて落命してしまいます。

猿田彦神が落命したことを耳にした伊勢津彦は即座に猿田彦神の領地へ攻めかかり、とうとう我が物にしてしまい、好き放題にしてしまいます。

しかし!突如、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の使者が伊勢津彦神の前に現れ、伊勢の土地を引き渡すように要求してきます。

伊勢津彦は激怒してこれを突っぱねるのですが、これを聞いた瓊瓊杵尊は軍勢を差し向けて伊勢津彦に対し、降伏を要求します。

伊勢津彦は軍勢の多さと、天孫(てんそん/天照大御神の孫=瓊瓊杵尊のこと)の力の大きさに腰を抜かしてしまい、ついに白旗を上げて降参し、自らは大風が荒れ狂う夜に東の方へ姿を消すのです。

この後、瓊瓊杵尊は伊勢津彦を少し哀れに思い、せめてもの情けで伊勢津彦の「伊勢」をこの国の名前にした・・というエピソードです。ウフ

猿田彦神社の御祭神「太田命」とは?

大田命は猿田彦神と共に相殿形式で本殿内で奉斎されています。

大田命は猿田彦神の末裔(まつえい/子孫)であることから、五十鈴川周辺の土地を守護する古くからの土地神であり、倭姫命が神鏡(天照大御神の御神体)を抱えて伊勢の地に訪れた時に、現在の内宮が建つ土地をゆずっています。

そしてその後に伊勢神宮(内宮)が倭姫命により創建される運びとなります。

驚くのは猿田彦神の血脈は脈々と受け継がれ、現今に至っては「宇治土公(うじつちぎみ)」という氏名を以って代々、この猿田彦神社の宮司として当社に奉祀しているという事実です。

宇治土公と言えばかつては伊勢神宮内の特殊な職である「玉串大内人(おほうちむど)」という職を代々、受け継いでいた氏族でもあります。

玉串大内人とは禰宜(ねぎ)に次ぐ位の要職であり、これは神饌(お供え物)を調製して供進する職務のことです。ウフ

倭姫命が各地をめぐったルートについては下記ページをご参照ください。

猿田彦神社の歴史・由来

猿田彦神社は内宮に近いからといって伊勢神宮の所管社でもなければ摂社や末社でもなく、伊勢神宮とはまったく別の神社になります。

しかし、伊勢神宮とは太古の時代より関係深い社であると伝えられています。

創建は不明とされていますが、上記、伊勢国風土記や倭姫命世記の記述によれば、猿田彦神の子孫である大田命から土地をゆずり受けて伊勢神宮(内宮)を創建したとされることから、これを事実とするのであれば伊勢神宮よりも古い時代に創建されていることになります。

おそらく天孫・瓊瓊杵尊の降臨と時をほぼ同じくして猿田彦神もこの伊勢の地に鎮まっているため、天孫降臨があった神話の時代からこの伊勢の地に鎮まる土着の土地神だということになります。

以降は代々、猿田彦神の子孫でもある歴代当主の邸宅内の屋敷神として奉斎されてきたようですが、明治初頭に神官の世襲が廃止されると現在見られるような神社を建立し、「猿田彦神社」と命名しています。

すなわち、「猿田彦神社」としての正統な歴史は明治時代が起源となります。

神社としての社格も歴史が浅いことを証明するように、当初は「無格社」とされてきたようですが、太平洋戦争終結後にようやく「別表神社(べっぴょうじんじゃ)」に列せられています。

猿田彦神社は伊勢だけじゃない!日本全国に2000社もある!

この伊勢・猿田彦神社は、猿田彦大神が鎮まる場所として日本全国に数ある猿田彦神社の総本社と云われています。

ちなみに、日本全国にある猿田彦神社の総数は、なんと!2000社ほど存在すると云われております。

三重県下だけでも他に数社ある!

猿田彦神を主祭神として祀る神社は三重県下に数社ありますが、代表的な社を挙げると以下のような神社になります。

  • 椿大社(つばきおおかみやしろ):三重県鈴鹿市
  • 阿射加神社(あざかじんじゃ):松阪市小阿坂町

実は、このうち椿大社は昭和10年に行われた政府(内務省神社局)の調査によれば、日本全国の猿田彦神社の総本宮に指定されているとのことです。

上述の猿田彦神にまつわる伊勢国風土記のエピソードにて、かつて猿田彦神と伊勢津彦神が伊勢国内で交戦し、結果、猿田彦神は現在の三重県松坂市の阿坂にて正体不明の貝に噛まれて命を落としています。

古事記の記述によれば、猿田彦神が貝に噛まれて落命した際、底度久御魂(そこどくみたま)・都夫多都御魂(つぶたつみたま)・阿和佐久御魂(あわさくみたま)という3つの魂を体外に放ち、後にその魂を祀るために阿邪詞(あざか)の山上に祠が築かれ、現今に至っては「阿射加神社(あざかじんじゃ)」と呼ばれる神社になっているというストーリーです。

すなわち、猿田彦神が鈴鹿の椿大神社にも鎮まっていることについては謎と言わざるをえません。

【補足】猿田彦神社と伊勢神宮の繋がりや関係性とは?

冒頭でも述べましたが、伊勢神宮と猿田彦神社の繋がりは深いものがあり、その関係性は太古の昔にまで遡ります。

猿田彦神社と伊勢神宮の関係としては主に以下の4つの事例が挙げられます。

1.猿田彦神は天照大御神の甥の天孫降臨を手助けした

上述したように伊勢・五十鈴の地に鎮まった猿田彦神は後に子孫ができますが、その子孫の末裔が「大田命」になります。

大田命は猿田彦神が天照大御神の甥である瓊瓊杵尊を道案内して無事に地上へ降らせた功績から、後に神宮の神官としてに奉仕することになります。

神官となって神宮に奉仕しつつも、祖先神である猿田彦神を祀るための覆屋(おおいや)のようなものを自宅に作っていたようです。この覆屋がこそが現在の猿田彦神社の前身になります。

2.天照大御神の血を受け継ぐ倭姫命に猿田彦神の子孫が土地を提供した

「太田命」は、天照大御神をお祀りする地として五十鈴川の川上を倭姫命に献上したとされ、この土地に皇大神宮(内宮)が造られています。

後に「太田命」の子孫は「宇治土公(うじのつちぎみ)」という姓を名乗り、伊勢神宮の要職である「玉串大内人(たまぐしおおうちんど/神職の位)」として代々奉仕することになります。

以来、この世襲は明治時代まで続いたようですが、明治初頭に神官の世襲制度が廃止されると自らの屋敷を改めて神社とし、その神社こそが現在の猿田彦神社です。

「玉串大内人」とは、神宮の式年遷宮で心御柱と御船代を造り、お供えするなどの重要な役割をする職のことです。

3.猿田彦神の妻「天宇受売命」は天照大御神を天岩戸から連れ出した神の1人

弟神であるスサノオ神が天界で暴れまわった後、悲しみの果てに天照大御神は天岩戸へ隠れて閉じこもってします。

太陽神である天照大御神が岩戸の奥に隠れると太陽の光がない世界では悪いことばかり起きます。

そこで神々は天岩戸から天照大御神を再び、連れ出すための手段として天宇受売命に激しい踊りをさせています。

結果、天照大御神は天岩戸から連れ出され、再び世界には光が降り注がれることになるのです。

4.猿田彦神の妻「天宇受売命」は天孫の使者として最初に猿田彦神と顔を合わせた神

上述のように「 天之八衢(あめのやちまた)」の分岐点で瓊瓊杵尊一行が来るのを待ち構えていた猿田彦神ですが、一行は猿田彦神の強面の容姿を見て驚いてしまいます。

そこで最初に猿田彦神と顔を合わせて言葉を交わしたのが、のちに猿田彦神の妻となる天宇受売命です。

天宇受売命はお得意の踊りを用いて、猿田彦神の緊張をやわらげ、最初に名前を名乗らせたと云われます。

この後、猿田彦神の道案内により、ニニギ一行は天孫降臨を無事に終えるということです。

猿田彦神社のお問い合わせ先(住所・電話番号・営業時間・駐車場)

住所:伊勢市宇治浦田2-1-10
電話番号:0596-22-2554
URL:http://www.sarutahikojinja.or.jp/about/

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