ミキモト真珠島の
ミキモト真珠島に入島し、御木本幸吉像や海女さんの実演を見ながら時計回りに進むと、出口の手前にガラス張りの和風建築「御木本幸吉記念館」が見えます。
御木本幸吉記念館では、御木本幸吉の生涯を、当時の写真や説明パネル、アニメなどを交え、年代順にたどっていくことができます。
うどん屋の息子が自ら商売を始め、前人未到の真珠の養殖に乗り出し、成功させ、海外にまで進出して「真珠王」となる波乱万丈の人生を、ぜひじっくりと追いかけてみてください。
また、記念館に至るまでの緑に囲まれた散策路や、記念館の海側に整備された庭園も素晴らしいので、ゆっくりとご覧くださいね。
御木本幸吉記念館入口
御木本幸吉記念館の館内内部図
画像提供:ミキモト真珠島
展示品例
うどん屋「阿波幸」(復元)
1867年(慶応3年/江戸時代末期)の阿波幸を復元した模型です。
御木本幸吉(幼名・吉松)が9歳の頃、石臼を土間に置き、うどん屋と製粉業を営んでいた頃の阿波幸を復元した模型です。
お気づきになった方もいると思いますが、ミキモト真珠島の中にある「阿波幸」というレストランは、この御木本幸吉少年が過ごした「うどん屋・阿波幸」の名前をとっています。
晩年の住まい「真珠閣(真寿閣)」からの景色を再現したコーナー
「真珠閣(真寿閣)」は、御木本幸吉氏が晩年の余生を過ごした建物です。「閣」とつくと立派な佇まいをイメージしてしまいますが、御木本幸吉氏は建築への造詣が深く、氏にとっての閣とは、和風の質素な佇まいだったようです。
真珠閣はもともと英虞湾(あごわん)内の多徳島の養殖場の高台に建てられていたそうで、半ば養殖場内の社長室のような感じだったといいます。
真珠閣は明治〜昭和初期あたりの建造物によく見られる質素な佇まいですが、この邸宅からは英虞湾が一望できたとされ、真珠の養殖場と英虞湾の美しい景色が観れる建物ということで「閣」を付けて「真珠閣(真寿閣)」と命名したのかもしれません。
妻うめの写真・手紙
御木本幸吉の嫁である「うめ」は御木本幸吉をよく理解し、「うめ」がいなければ現在のミキモト真珠はなかったと言われるほど助けたそうです。
夫の背中を後押しできる妻というのはいつの時代でも重宝されるものです。ウフぅん♥
エジソンからの手紙
画像提供先:ミキモト
御木本幸吉は1986年にパリのヴァンドーム広場に海外初店舗となる店を構えています。当時、ヨーロッパでも御木本幸吉が人工的に真珠を作り出す技術は高く評価され、かの著名発明家「エジソン」も賞賛したほどです。
そしてついに両英雄は1927年、会見を行うことが決定し、その際にエジソンから幸吉さんへ送られたのがこの手紙です。
手紙の下のサインに注目です。「トーマス・エジソン」と書かれています。
秘蔵の真珠のネックレス「大将連」
「大将連」とは、養殖真珠の中から10年以上かけて幸吉が選んだ49個の大珠真珠でできたネックレスのことです直径は約14ミリ。
名称は、幸吉氏が従業員から親しみを込めて「大将」と呼ばれたことに由来します。
「矢立て」などの愛用品
矢立て:筆と墨壺を組み合わせた筆記用具のこと。
所蔵する恵比寿像(えびす)
御木本幸吉は海外へ進出して成功できたのは恵比寿さんのおかげだと考えるようになり、やがて恵比寿像の収集に熱中していきます。
その熱中ぶりは時に度外視されるほどで、生涯に1万点の恵比寿像を収集すると豪語したほどでした。
しかし、1万点もの恵比寿像を収集することは存命中に叶わず、収集した300点のうちの小サイズの恵比寿像が当館に出陳されています。
大サイズの恵比寿像は年に一度のご開帳の日に出陳されます。
御木本幸吉の書
幸吉本人や真珠養殖に協力した人の写真
ミキモト真珠の成功は御木本幸吉さんの努力や実力の賜物だと思いますが、その幸吉氏を縁の下で支えた人物たちの協力も忘れてはならないことです。
ミキモト真珠がここまで成長できたのも、ひとえに関係者の尽力があったからに他なりません。
御木本幸吉記念館の所要時間
御木本幸吉記念館は博物館ほどの規模はありませんので約20分くらいで回れます。(じっくりと観覧した場合は約40分)
館内は基本、反時計回りに進み、グルっと1周できるようになっています。
御木本幸吉記念館の営業時間・入館料金
御木本幸吉記念館はミキモト真珠島の中にあり、営業時間は、ミキモト真珠島の営業時間内となります。
ミキモト真珠島の営業時間は8時30分~17時30分頃ですが、季節により細かく変動します。
また、入場料(大人1,500円)もミキモト真珠島の入り口で払いますので、記念館に入る時は必要ありません。