質問!どうして歴代天皇家は伊勢神宮に参詣しないのか?

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質問!どうして歴代天皇家は伊勢神宮に参詣しないのか?

質問!どうして歴代天皇家は伊勢神宮に参詣しないのか?天照大御神(あまてらすおおみのかみ)は、皇室の祖先の神様と言われていますが、近代の明治天皇まで、天皇みずからが伊勢神宮に参拝したという記録は残っていません。

遠い昔のことなのでハッキリしたことは判らないと思いますが、まずは伊勢神宮と天皇の関係から、一緒に見て行きましょう。

天皇が伊勢神宮に参拝しなかった2つの理由

実は古来から伊勢神宮は天皇のために作られた神社で、一般の人は参拝できませんでした。

一般人が個人的な願い事をすることもゆるされていません

では、何故、明治天皇が参拝するまで、天皇は参拝しなかったのでしょうか。

本当の理由は判っていませんが、想定されている説を2つ紹介します。

天皇が伊勢神宮に参拝しなかった理由【その1】「鏡に宿る神(天照大御神)の魂を恐れているため」

明治天皇以前の天皇は、八咫鏡に宿る「天照大御神の御霊」を、心底、恐れていました。

そのため、自らが参拝するのではなく、心も体も清められた「斎王」を決めて、その斎王にお祀りを委ね、これを制度化して、八咫鏡をお祭することにしたためではないかという説です。

天皇が伊勢神宮に参拝しなかった理由【その】「財政的な理由」

都と伊勢神宮は現代のような便利な交通網はありませんでした。

「斎王」が伊勢神宮に向かう時でさえ、100人のお供を従えて、何日もかけて行列で向かわなければなりませんでした。

もし、天皇が参拝するとなると、どれだけの費用が掛かったか想像もつきません。

又、天皇といえども、絶対権力者ではなく、その時々の将軍等と歩調を合わせる必要がありました。

特に織田信長公による、天皇が御座する「御所の宮殿」の修復時には、老朽化によって雨漏りまでしていたようです。

つまり、財政的な問題で、天皇の参拝はしなかったのではないかという説です。

以上のような2つの説が現在までに考えられております。

但し、宮内庁からの記録の開示はありませんので、想像は膨らんでしまいますが、本当の理由は不明です。

【補足】天皇が八咫鏡に宿る天照大御神を恐れた理由とは?


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災いを巻き起こし、忌み嫌われたとされる「八咫鏡」

天照大御神から、授けられたお鏡(八咫鏡)は、天皇と同じ御殿で祀るように命じられていました。

そのため、皇居内で祀られていましたが、「第10代の崇神(すじん)天皇」の時代に疫病がはやり、大勢の死者が出てしまいました。

そのため、崇神天皇は「神の祟り」だと、周囲にわめき散らして、ノイローゼに陥ったと言われています。

こんな騒動もあり、当時では、八咫鏡のせいなのではないか?・・という噂が流れました。

そして、ついに気が動転した崇神天皇は、ある手段に出ます。

なんと!

崇神天皇は天照大御神の魂ともいうべき「お鏡(八咫鏡)」を、皇居の外に出してしまったのです。

八咫鏡と伊勢神宮

皇居を出された「八咫鏡」は、崇神天皇の皇女(娘)である「豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)」によって、「大和の国(奈良県)の笠縫村(かさぬいむら)」祀られました。

それから、しばらく時が流れて、次の天皇である第11代の「垂仁(すいにん)天皇」の代になります。

垂仁天皇の代になると、八咫鏡をお祀りする役目の交代の時期が到来しました。

そして、次に八咫鏡をお祀りする役目に選ばれたのが、垂仁天皇の皇女である「倭姫命(やまとひめのみこと)」が選ばれました。

そして、「斎王(お祀りする人」)の業務が、前代の「豊鍬入姫命」より、倭姫命へ引き継がれました。

倭姫命は、天照大御神が、お鎮まりになるのにふさわしい土地を探して諸国を巡りれました。

しかし、八咫鏡に宿る、天照大御神の神霊が、あまりにも強すぎたこともあり、八咫鏡(天照大御神)にふさわしい土地は、簡単には、見つかりませんでした。

その後、やっとのことで運命の地である伊勢の地と巡りあった倭姫命は、この地に八咫鏡を移すことに決めます。

そして、倭姫命は、さっそく、この伊勢の地に「御社殿」を建てて八咫鏡(天照大御神)をお祀りしたといわれています。

これが、今日の伊勢神宮(内宮)が建造された理由です。

八咫鏡と斎王

このような経緯を経て、伊勢神宮は成立したため、皇室の祖先の神である「天照大御神」に、お仕えする伊勢神宮の祭主は、天皇陛下が定めた皇族、または元皇族の方が、務めると言うことが通例となっていきました。

そして、7世紀末には「祭祀」を行う組織制度が整えられています。

すなわち、天皇が即位すると、未婚の「内親王(ないしんのう)」の中から「斎王(さいおう)」が選ばれて、天皇に代わって神宮に奉仕することになりました。

この時「私幣禁断(しへいきんだん)の制」が制定されて、伊勢神宮にお参りするのは、「勅使」や「斎王」のみに限られました。(唯一の例外は、「和歌の奉納」でした)

 ところで、現在の「斎王」って誰?

ところで、現在の「斎王」って誰?ここまで、読みすすめていただいた方なら、こんな疑問も出てくると思います。

「それでさ、現在の斎王って誰?存在するの?」

などと言う疑問です。

しかし、残念なお話とはなりますが、この斎王の制度は、朝廷が2つに割れた「南北朝時代(1330年頃)」に崩壊したといわれています。

さらに、この南北朝時代を境に、朝廷の権威は衰えていき、武家が台頭する時代に移り変わってゆきます。

すなわち、これまで天皇家が国家の中心的存在であり、天皇中心の王政が布かれていた時代では、財源の確保が容易にできました。

しかし、武家が台頭すると天皇のもとへ直接、財が集まらなくなり、財源の衰えと共に「斎王」の制度が執り行えなくなり、時代から消えていったというワケです。

武家の時代に入ってから、以降、現代まで、天皇家の財源は幕府や政府によって管理されています。

すなわち、以下のような2つの理由により、斎王が現代にはいないということになります。

  • 斎王の制度を執り行う財源がない
  • 時代が民主主義になり、斎王の制度自体が消失した

斎王が決められた本当の理由

実は「斎王」は、天皇の勅命の前に、陰陽師による、占いで決められたそうなのです。

斎王になると、「皇居内の初斎院(しょさいいん)」と外にある「野宮(ののみや)」で、各々約1年間、慎み深い生活を送り、京都の御所から少し離れた「桂川」で体を清めます。

その後、3年目の9月に天皇から「別れの櫛(くし)」をたまわり、伊勢に向かいます。

斎王は、伊勢国多気郡の櫛田側の下流にある住まいに暮らして、伊勢神宮の「三節祭」の時の、お祀りに奉仕されたそうです。

あまり知られていない、伊勢人の「三節祭」と、天皇家(皇族)との深い関係

伊勢神宮の最も大切な「三節祭」の時には、天皇は、伊勢神宮へ使者「勅使(ちょくし)」をつかわして「絹織物」などを奉納されました。

このように伊勢神宮には、国家の祭が、人知れず行われてきた過去があったのです。

「私幣禁断の制」によって伊勢神宮は、天皇の間接的な、公的な祈りの場所になったと言うわけです。

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